スポンサーサイト

--.--.--.--:--

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

黄文雄氏に学ぶ日支事変史(02)虐殺史から支那史を読む/戦争がない時代はなかった中国

2018.05.20.17:59

虐殺史に浮かぶシナの心性 「日本軍の暴虐」はどう創作されたか 黄文雄(評論家・文明史研究家)別冊正論26号「『南京』斬り」(日工ムック) より
https://ironna.jp/article/4110

―――――
虐殺史から支那史を読む

近代支那思想界の傑物・梁啓超は支那人を「戮民(りくみん)」と称した。頻繁な戦乱と虐殺から逃れられないからだろう。支那人が他人に無関心で、「他人の不幸を喜ぶ」メンタリティなのは、こんな中華世界に生きるからである。だから、今の中国人は「僥倖(ぎようこう)な生き残り」とも言われる。

支那史を「奴隷史」と読む者もいる。魯迅(ろじん)は「奴隷になろうとしてもなれなかった時代と、奴隷になれてしばらく満足している時代に二分すればいい」と説いた。支那史を虐殺史として読む根拠は、古代春秋戦国時代の穴埋めや屠城だけではない。民国時代の殺し合いや文革期の「武闘」もそうで、被害者は1億人以上とまで言われる。『共産主義黒書』には、人民共和国の血の粛清被害者は8千万人以上とある。

各王朝正史だけでも、類例なき「虐殺史」と読める。人民共和国になって論争にもなった唐「黄巣の乱」は、殺された民衆が800万人とされる。長安城外に巨大な舂磨砦(しようまさい)が造られ、捕獲民衆を日に千人この巨大な臼に入れ、骨ごとの人肉ミンチを生産し、乾尸(かんし)(干し肉)や塩尸(えんし)(塩漬け肉)まで作って兵糧にした。これは、正史『唐書』『新唐書』や『資治通鑑』だけでなく、アラビア商人の『印度・支那物語』にも出てくる話である。

黄巣の乱では、広州でも大虐殺があり、イスラム商人も虐殺され尽くした。近代でも、太平天国の虐殺はよく語られる。天理教(白蓮教徒)の乱では、広東で約百人が虐殺された。孫文が広州で軍政府をつくった際には、北方から「客軍」(外省人部隊)が乱入し、ジリ貧になった孫文は広州大虐殺を行った。

支那虐殺史の中では、四川の蜀(しよく)人は南方の越(えつ)人よりもっと哀れだ。秦に征服され、三国時代には蜀漢(しよくかん)として中原の魏、南方の呉と鼎立(ていりつ)し、『三国志演義』の舞台にもなった。蜀は中原の地から遠く離れた奥地であるが、「天下大乱の前にはまず蜀が先に乱れ、天下が鎮まった後でも蜀はまだ鎮まらない」と言われ、蜀人は三国時代に蜀漢から何度も大虐殺に遭い、人口がそっくり入れ替わることさえあった。明末の張献忠の大虐殺(屠蜀(としよく))では、女性だけでも400万人が殺された。

辛亥革命で中華民国となっても五代十国時代より激しい殺し合いに突入し、十数年間に蜀人の内戦が500回以上も起きた。知名な文学者・林語堂は、国民党の7年間の内戦だけで3千万人が死んだとし、そんな中国人を「敗類」(クズども)と呼ぶ。

―――――

■■ Japan On the Globe(403)■ 国際派日本人養成講座 ■■■■
地球史探訪:戦乱の中国大陸~ 久しく合すれば必ず分す
 日本が反省すべきは、かくも混沌たる
中国大陸の内戦に直接介入した事である。
■■■■ H17.07.17 ■■ 33,189 Copies ■■ 1,690,692 Views■

―――――
■1.三国志の歴史法則■

 中国との関係を考える上で忘れてはならないのは、「三国志演義」の冒頭にある次の「歴史法則」だろう。

 天下久しく分すれば必ず合し、久しく合すれば必ず分す

 広大な中国大陸では様々な地方勢力が相争い、そのうちの勝者が天下統一を果たす。やがてその勝者が力を失うと、また天 下は分裂して、地方勢力が戦いあう状態に戻る。

「三国志演義」は3世紀に後漢が滅びて、魏、呉、蜀の3国に分裂し、相争う様を描いているが、中国大陸ではその後も、統一と分裂が繰り返された。随、唐、宋、元、明、清と並ぶ統一王朝の間には、かならず大規模な戦乱の時代があった。

 明の末期は流賊が荒らし回り、疫病が大流行し、飢饉が全国を襲って、飢えた民衆の間では人肉食が日常的に見られた。満洲人とモンゴル人を主体とする清の八旗軍が北京をはじめ、各 地の都市に入城した時、民衆は乱世の救世主として、熱烈歓迎した。民衆にとっては支配者がどこの民族であろうが、治安を回復してくれれば、それで良かったのである。

 この清の滅亡後も、各地の軍閥が抗争し、中国大陸は乱れに乱れた。そこに介入したのが、ロシアを含む西洋列強と日本であった。

■2.相次ぐ天災、飢饉、反乱■

 清帝国は18世紀末に最盛期を迎えたが、その後は人口過剰とそれに伴う自然破壊で、飢饉、流民、反乱、内戦の自壊プロセスに陥っていった。日本人とは違って、もともと植林を行わない漢民族のこと、エネルギー源として樹木を乱伐し、その結果、降雨が多ければ洪水、少なければ干魃に苦しめられる。

 1810年の山東大干魃、河北大洪水、湖北霜害で900万人が死亡し、翌年には2千万人が餓死した。1849年の大飢饉では1375万人、1876~78年の大飢饉では1300万人が餓死している。
[1.黄文雄『日中戦争 真実の歴史』★★★、徳間書店、H17,p106]

 こうした災害のたびに、大量の農民が土地を失って流民と化し、その一部が盗賊となって、他の土地を襲う。さらに新興宗教が興って、流民を吸収しつつ、大規模な反乱を起こす。
 1851年から14年間、猛威を振るった太平天国の乱は、推定死者数5千万とも言われる世界史上最大規模の内戦だった。キリスト教と道教的土俗信仰が結合したカルト集団で、満洲王朝打倒を旗印に、「戦死することは昇天することである」と民衆に信じ込ませて、北京に迫った。こうした新興宗教による反乱が何度も繰り返された。

―――――

戦争と殺戮ばかりの国・中国 『徳間書店』黄文雄(評論家)《徳間書店『世界に災難をばら撒き続ける 中国の戦争責任』より》
https://ironna.jp/article/3342

―――――
戦争がない時代はなかった中国

中国ほど戦争をしてきた国はない。また、自国民を含めた殺戮を行ってきた国もない。共産主義の中国になってからでさえ、チベット侵攻(一九四八─一九五一)、中印戦争(一九六二)、中ソ国境紛争(一九六九)、中越戦争(一九七九)を行い、加えて南シナ海の東沙諸島、西沙諸島を略奪し、現在は南沙諸島を自国領土に編入しようと目論んで、フィリピンやベトナムと衝突を繰り返している。『共産党黒書』(ステファヌ・クルトワ、ニコラ・ヴェルト著、恵雅堂出版)によれば、二十世紀において中国の共産主義によって犠牲になった人々は六千五百万人にのぼるとされている。しかし、それはなにも二十世紀にかぎってのことではない。台湾の歴史家であり作家でもある柏楊(はくよう)氏は、中国史上「戦争のない年はなかった」とまで言っている。

中国はそもそも、歴史が連続した国ではない。現在の中華人民共和国は一九四九年の成立だが、その前は清朝であった。中国は秦の始皇帝による統一から、易姓革命(皇帝の姓が変わる、つまり王朝交代)を何度も繰り返してきた。元、清のように異民族によって支配された時代もあった。「万世一系」の日本人にはわかりづらいかもしれないが、易姓革命ということは、まったく違う国に取って代わられるということだ。それは改革でも変化でもない。だから「革命」という言葉が使われる。王朝交代時に戦乱を伴うのはもちろんのこと、謀反や反乱、内乱、農民蜂起などが日常的に頻発しており、そのため中国は「一治一乱」(治めたと思えばすぐに反乱が起こる)だと言われてきた。

太古から資源や領土の奪い合いを繰り広げてきた中国は、現在もなお、他国領土に対する侵略を続けている。東シナ海、南シナ海での中国の身勝手な振る舞いはその典型である。

もちろん戦争は一騎討ちから総力戦に至るまで、戦争の型はさまざまである。‐唐の玄武門の変のように兄弟の戦争から、明の靖難(せいなん)の変の叔父と甥、漢の武帝と皇太子との長安の都での親子の決闘もある。無辜の「難民」も出る。私の小学生のころに国共内戦後に追われた中国から数十万人の難民と学校の教室を生活の場として共有共生したこともあった。決して遠い昔々の話ではない。

自国民虐殺だけでなく、異民族虐殺も中国では現在進行形の「犯罪」である。儒教の国である中国では、中華の民とそれ以外の民を厳しく峻別してきた。中華以外の国は夷狄(未開の野蛮人)であり、獣と等しいと考える。そのため獣偏や虫偏をつけて「北狄」「南蛮」などと呼んできた。これを中華の徳によって文明人に変えることが「徳化(王化・漢化ともいわれる)」なのである。そして、儒教の発展理論である朱子学や陽明学では、天朝(中華の王朝)に従わない異民族は天誅を加えるべしという論となり、正当化されている。

十九世紀末から現在に至るまで延々と続くイスラム教徒(ウイグル人)の大虐殺、十六世紀の明末から十九世紀の清末に至るまでの西南雲貴高原の漢人による少数民族のジェノサイド、辛亥革命後の満洲人虐殺、通州事件などの日本人虐殺、人民共和国時代の文革中の「内モンゴル人民革命党員粛清」に象徴されるモンゴル人大虐殺、チベットに対する数百万人の虐殺と文化抹殺、台湾人に対する二・二八大虐殺など、近代中国人によって行われた民族浄化の大虐殺……近代中国では、こうした人類に対する犯罪がまかり通っているのである。

-こうした異民族に対する優越意識、さらにはすべて自らが世界の中心であると考える中華思想が、現在の中国においても、かつての王朝が統治していた場所のみならず、「歴史書に記述があった」くらいの場所までも、すべて自分たちのものだと主張する大きな要因となっている。だが、これらについてはまったく根拠がない。-それについて簡単に述べると、

①中華歴代王朝は、漢の時代からだけでなく、春秋戦国時代まで遡っても、城や関による国禁(入出国の禁止)が厳しく、戦国時代に築かれた長城や秦時代の万里の長城がそのシンボルである。それ以外にも、明時代には南方の苗(ミャオ)族を防ぐために建設された「南長城」まで発掘されている。それほど中原より外の世界との関わりあいは避けてきたのだ。

漢以後の歴代王朝も陸禁(陸の鎖国)と海禁(海の鎖国)がますます厳しくなっていった。たとえばもっとも開放的で国際色豊かとされる唐でさえ、その国禁については、鑑がん真和上の日本への密航や、渡唐僧の空海らの入った唐、三蔵法師玄奘和尚が陸禁(関所越えの禁止)を犯して天竺に取経に行った故事がその真相を物語っている。

②海洋的思考や海上勢力、航海力、海の英雄譚さえなかったのは、史前から典型的なハートランド国家であったからである。宋は陸のシルクロードのすべてを北方雄邦に押さえられ、江南まで追われた。明は北虜南倭(ほくりょなんわ)(北のモンゴル人と北の倭寇)に悩まされ続け、清は広州十三洋行という海の窓口しかなかった。

海については、海岸から五十里の居住禁止や「寸板不得入海」(一寸のイカダでさえ、海上に浮かべることは禁止)など、海に出たら「皇土皇民」を自ら棄すてた者、「棄民」とみなされた。華僑も例外ではない。帰国断禁どころか、厳しい場合は一族誅殺、村潰しまでの悲劇が避けられなかった。

③宋の時代の海への知識は、華夷図が代表的で、海南島はあっても台湾の存在さえ知らず、南海は未知の領域であった。

④東亜大陸の民は、原住民の原支那人の先祖たちも、華夏の民・漢人も、基本的には農耕民か城民としての商人、それ以外に、満洲人も狩猟採集民だった。モンゴル人などの遊牧民を除いては、土地に縛られる陸の民と言える。古代東アジアの北から南洋、さらにインド洋に至るまで、河川、湖沢、海岸に暮らし広く分布していた倭人は、不可触賤民として、中国人どころか天民や生民とさえみなされていない。

陸の民は太古から海を忌避し、暗黒の世界とみなしていた。字源にしても、黒は海と同系の発音である。海は有史以来、中土、中国としては認められていなかった。陸を離れてなおも「絶対不可分の神聖なる固有領土」とする与太話は、正常な人間なら絶対に認知すべきではない。

⑤今の中国人は「近代の国際法は西洋人が勝手につくったものだ。中国はもうすでに強くなったので、一切認めない」と主張するが、大航海時代以後の海洋に関する諸法を認めるとか認めないとか、あるいは勝手につくるとかしても、それはあくまでも中国だけの都合である。

そもそも太古から海洋をずっと忌避してきた中国人は、海洋とは無縁であり、法をつくる能力もない。海洋に関するかぎり、中国がいくら理不尽な主張をしても、ただ強欲を口にしているだけで、そこにほとんど説得力はない。

―――――


中国こそ逆に日本に謝罪すべき9つの理由―誰も言わない「反日」利権の真相 単行本 – 青春出版社, 2004 /3  黄 文雄 (著)

―――――
第6章 「教育のない国」が世界へまき散らす害毒

中国史に欠かせない「虐殺」の伝統文化

虐殺とは中国伝統文化の一つで、戦争では欠かすことのできない中国軍の慣習である。もし部下に住民への虐殺や略奪を許さない将軍がいれば、名将にはなれないどころか部下に逆襲されるだろう(p151)

戦乱と飢饉に明け暮れた災厄の中国

私は小学校二年生で終戦を迎えた。-国共内戦に敗れた蒋介石の軍隊や、難民二百万人が台湾になだれ込み、学校へも次から次へと兵隊が入ってきた。-私はいわば中国兵と共同生活をしていたわけだが、彼らのほとんどは文字が読めず、-また不衛生極まりなく、しばしば盗みや婦女暴行を働いていた。

このように台湾人が見た中国人とは、無知蒙昧の野党集団だった。-イナゴの大群のようにやってきた中国人の恐ろしさは、文明摩擦ともいうべき大ショックだった。-日本統治下の法治社会で安心して暮らしていた台湾人は、原爆以上の悲惨な被害を受け、立ち直れなくなったということだ。-中国社会で生きることとなった台湾人は、かって日本人に学んだ誠や、正直を、座右の銘にしていたことが仇になった。

80年代後半に、人類史上最長と言われた戒厳令が解除されるまで、無数の台湾人が、身に覚えのない罪を押し付けられ、政治犯として投獄され、拷問にかけられ、あるいは処刑されたのだ。-政治犯にされた人数は、台湾文献協会の記録によると、10万人以上に上っている。もちろん、その家族も犠牲者である。

18世紀末以来、立て続けに反乱が起こった中国では、太平天国の乱で人口の5分の1が、回乱では10分の1が虐殺されたと推定されているから、-中国政府の住民虐殺は実に凄まじい。-中華人民共和国となってからも、文化大革命で二千五百万人、反革命分子の一掃で二千四百七十万人、大躍進で二千二百五十万人、抗日戦争時代の内部粛清で六百万人等々、-これらの数字がどこまで正確かはわからないとしても、中国共産党が虐殺文化の継承者であることは間違いない。

中国帝国最後の王朝となった清は、中華文化圏外の満州に興り、まず中華世界を征服したのち、-モンゴル、新疆、チベットを呑み込んで、明王朝の三倍もの巨大な版図を築き上げた。-そのような清の侵略、植民地支配や、その意思と遺業を継ぐ現在の中国を不問にして、-日本の " 過去の一時期 " のみを譴責する日本の文化人は、あまりにも独善的ではないのだろうか。

日本が中国に侵略した、いわゆる " 過去の一時期 " というのは、中国の天下の崩壊時期にあたり、-複数の政府が乱立し、軍閥内戦、国民党内戦、国共内戦の大混戦が延々と繰り広げられていた、まさにカオスの状態だった。-どの政府も中国の代表だと主張しながら、対外的に一国の政府として責任を負えることのできるものは、一つもなかった。-つまり中国は、国家としての体をなしていなかったのである。

―――――
スポンサーサイト

黄文雄氏に学ぶ日支事変史(01)日本に“内政干渉”を続ける中国の狙い/ 欧米諸国には押し黙る狡猾な中国人

2018.05.20.15:51

序段として、Wiki.参照により「日支事変」を明記し、通史としての呼称として代用させていただきます。
~~~~~
支那事変とは、1937年(昭和12年)に日本と中華民国(支那)の間で始まった、長期間かつ大規模な戦闘である。なお、盧溝橋事件(1937年7月7日)は、4日後の松井-秦徳純協定により収拾している。その後の中国共産党の国共合作による徹底抗戦の呼びかけ(7月15日)、及び蒋介石の「最後の関頭」談話における徹底抗戦の決意の表明(7月17日)により、中国軍の日本軍及び日本人居留民に対する攻撃、第二次上海事変が連続し、戦闘が本格化した。したがって、日中戦争(支那事変)の端緒を、盧溝橋事件と考えるか、国共合作による抗戦‐と考えるかにより、同戦争の歴史的な評価は大きく変わることになる。

ただし、両国ともに宣戦布告がないまま戦闘状態に突入したので、戦争ではなく事変と称する。「支那事変」という呼称は、当時の日本政府が定めた公称であるが、初めは北支事変と呼ばれ、‐た。新聞等マスメディアでは日華事変(にっかじへん)などの表現が使われるほか、日支事変(にっしじへん)とも呼ばれるなど、呼称の揺らぎがある。
~~~~~

虐殺史に浮かぶシナの心性 「日本軍の暴虐」はどう創作されたか 黄文雄(評論家・文明史研究家)別冊正論26号「『南京』斬り」(日工ムック) より

https://ironna.jp/article/4110

―――――
支那の伝統文化としての虐殺

歴史や生態によって社会の仕組みも異なり、風習も文化も異なるのは、ごく当たり前のことだ。国共内戦や朝鮮戦争、ベトナム戦争が起きた近隣諸国と違い、戦後日本が70年も平和を守り続けていることは、世界では稀有な例である。もちろん「憲法九条」があるからではなく、誰かの努力でも、英明な指導者のおかげでもない。それは社会の仕組みのおかげだと私は考える。

江戸や平安の世にも数百年の平和な時代があり、縄文時代の平和はもっと長い。それは自然生態から生まれた社会の仕組みそのもの。日本の神々には、古代ギリシャの「神々の戦い」もない。戦争のない年はなかった支那と、日本は社会も文化も異なる。戦争は生活や風習の延長でもあり、文化の一つでもある。日支の戦争様式(かたち)が違うのは、戦争文化が異なるからだ。

日本の戦争は古来武士が主役だった。支那は全民戦争が多いので、日本の賤ケ岳の役や関ケ原の戦いのように、百姓が山上で観戦する余裕などない。京師(けいし)(王朝の都)は二重、三重の城壁に囲まれ、村落も学校までも囲まれていた。決して万里の長城だけではないのである。

戦争のかたちが異なる支那では、「虐殺」は伝統、風習になり、戦国時代から「屠城(とじよう)=市中皆殺し」が戦勝の一大行事だった。長安、洛陽、開封などの京師では、歴代王朝による大虐殺がよく知られる。戦史によく「穴埋め」も出てくる。秦将・白起(はくき)が趙の40万人以上の投降兵を生き埋めにしたことは史上有名である。武将が戦功を誇るために、敵の遺体を集めて「京観(けいかん)」を造ることが盛んに行われた。その遺跡が「万人坑」(万人塚)である。

村対村、部落対部落の集団武力抗争が「械闘(かいとう)」で、史前から人民共和国の文化大革命期を経て現在も続く。地域の長老だけでなく党書記まで先頭に立ち、武器を持ち出して行う虐殺は民間の風習にもなっている。

ことに民間の武術集団は、匪賊(ひぞく)退治だけでなく異教徒の皆殺しも行う。19世紀末のイスラム教徒大虐殺(洗回(シイホエイ))や、20世紀初めのキリスト教徒大虐殺の北清事変(義和団の乱)は歴史的大事件となった。文革期はあらゆる宗教が絶滅された。1989年の6・4北京天安門虐殺に世界は震撼したが、それは「木を見て森を見ない」支那観である。
―――――


中国こそ逆に日本に謝罪すべき9つの理由―誰も言わない「反日」利権の真相 単行本 – 青春出版社, 2004 /3  黄 文雄 (著)

―――――
第1章 日本に“内政干渉”を続ける中国の狙い

中国による理不尽な教育への干渉に対し、日本が今までのように不作為に徹し、さらには譲歩、迎合を積み重ねるならば、「勝者にこそ歴史の解釈権がある」という中国の信念はますます強固なものになっていくことだろう。それにしても中国人の歴史観は、さすがに政治の道具だけあり、歪曲、捏造に満ちたものである。(p39)

中国が警戒するといってやまない「日本軍国主義の復活」という文句は自国の軍拡の道を正当化したいがための言いがかりだ。そのような言葉を謙虚に承ろうとする、あるいはそれに唱和する愚かな日本人がいかに多いことか。(p43)

戦後の首相による靖国神社参拝は、1951年秋に吉田茂首相が再開し、52年の大祭以来、・・・歴代首相は、みな例大祭には公式参拝している。75年以降は、八月十五日と例大祭に参拝している。ところが85年に中国から抗議されると、当時の中曽根首相は参拝を取り止めた。‐どうしてここに至って抗議を開始したのであろうか(p45)

反撃できないおとなしい相手に対し、とことん、際限なくつきまとい、脅迫し、利益を引き出そうというのが、易姓革命国家のヤクザ体質の特徴である。李登輝氏はしばしば、中国人の特性として「柔らかい土を掘る」と指摘しているが、まさにその通りである。(p67)

中国人の凶悪犯罪が横行するようになってからは、警察官までが一番恐れているのが中国人だ-。最近の警察官は中国人の危険性から一人では巡回しないのだそうだ。‐中国人は凶器を持っている者が多く、危険なため、なかなか近寄れないのだ(p75)


第2章 欧米諸国には押し黙る狡猾な中国人

戦後中国の国共内戦にしても米ソの代理戦争であることは否定できないが、中国内戦に関与した列強の中で、なぜ日本だけが侵略国として非難され、米英ソだけが中国防衛戦争を支援したと評価されるのだろうか。(p109)

―――――

書籍「侵略の世界史」(5)おわりに 2、日本には白人型植民地支配は一つもない 西欧植民地支配と日本との最大の違い

2017.08.15.12:42

スペイン、ポルトガルの16世紀の空前の大繁栄は、本国の何十倍もの中南米やアジアの植民地からの掠奪と奴隷貿易、奴隷酷使の結果であった。
ところがその繁栄の原資の植民地を次の植民地泥棒のオランダや英仏に奪われると、たちまち衰亡してしまった。また大東亜戦争後、ヨーロッパ列強のすべてはその虎の子の植民地を失い、いずれも往年の繁栄を失い、斜陽国に転落している。

ところが日本のみ、植民地を失ったにもかかわらず、独り空前の繁栄を誇っているのは、なぜだろう。
それは逆に植民地をすべて捨てさせられたからである

既述のごとく日本にとって植民地は掠奪の対象でなく、国費持ち出しの対象だったからであるそのお荷物を降ろさせられて、かえって日本は大繁栄することかできたのだ

これによって日本の言うところの植民地支配は西洋のそれとは全く異質であったことが、はからずも実証される結果となったのである。

日本には植民地大学はないが拓殖大学があって、新しく国土に編入された土地人民をいかに開明するかの努力が果たされてきた。
北海道を植民地と言わず、北海道拓殖と言うように、台湾も樺太も朝鮮も表面上植民地であったが、実際は北海道と同じく国家の拓殖の対象だったと見るべきである。

書籍「侵略の世界史」(4)おわりに 2、日本には白人型植民地支配は一つもない 台湾の繁栄を韓国はどう説明するのか

2017.08.15.11:51

白人の植民地とは、地球の反対側まで遠征してきて、武力により白人以外の有色人種の人と土地と資源を略奪する対象の土地のことだ。それは自国の国益のためだけで植民地住民の利益、国益など眼中におかないものだ。
英国のインド植民株式会社(東インド会社)の例のごとく、株式会社方式だから利益の追求が目的で、原住民の開明、福祉など考える必要はなかった。英国だけでなく仏、蘭などの植民地経営も、まったく同じ株式会社方式であった。

これに対して日本のいう所の植民地は、すべて日本に隣接の土地で、同じ顔のアジア人の土地である。台湾も樺太も朝鮮も、軍隊を派遣して力ずくで奪ったものは一つもない。
台湾、樺太は敵の侵略に対する自衛戦争の勝利の結果、賠償として国際条約を結んで合法的に自国に組み込まれたものであり、朝鮮も二国間の条約に基づくチェコスロバキアのような併合である

日本の植民地政策は白人のような掠奪の対象とするのでなく、原住民の生活や文化を日本人と同じレベルに引き上げ恩恵を与えようとする皇民化政策で、すべて開明、拓殖を意図したものである。
学校、道路、鉄道、港湾、病院など、社会基盤の整備に大変な努力を払った。当時の日本の国家財政の一割をその開明のために投資しつづけたのである。
朝鮮では、一面(村)一枚の学校を建て、住民は初めて基礎教育を受け、ハングルも初めて覚えた。京城帝大や台北帝人は名古屋、大阪帝人より先に造られたほどだ。


西欧の植民地では、教育など施すと利口になり独立運動の反乱分子を養成することになるからという理由で、絶対にやらない。住民を愚民のままにしておくのが白人植民政策であった。
日本の植民地教育の成果は、戦後独立した台湾と韓国かアジアで日本に次ぐ工業先進国に突出できたのを見ても明らかである。韓国は、戦後日本に次いでアジアでオリンピックを開くほどの先進国になれた。
感謝されこそすれ、怨みを買う筋合いはないはずだ。

それなのに韓国は日本の植民地支配を日本最悪の悪政として、いつまでも外交の切り札に使っている。日本側が一切反論しないのをいいことにして、日本をうさ晴らし、ウップン晴らしの対象にしているのである。
これでは永久に日韓の友好親善はありえない。
日本側が一言も反論せず、NOとも言わないことをよいことに、日本たたきの捏造、非難、怨念は、年ごとにエスカレートしている。韓国はいつになったら国際的な大人の国になるのであろう。


日帝36年が悪政なら日帝50年の台湾は、もっと悲惨な国になっているはずである。
台湾は日本統治が長かっただけ教育、社会基盤整備が進み、戦後アジア第一の外貨を持つ近代国家に成長している。これを韓国はどう説明するのか。
台湾はマッカーサー占領政策に侵されなかったお陰で、大東亜戦争を正しく評価し、日本人として大東亜解放の聖戦に参加したことに誇りを持っている。
いま靖国神社に、台湾人の英霊が2万7000人も祀られているのだ。
なお韓国人も2万1000人祀られている。

台湾のすぐ南に接するフィリピンは、スペインとアメリカの白人植民地支配下にあったお陰で、固有の文化も言語も否定され、英語、キリスト教を強制されたが、アジアでは貧しい国のままに留まっている。
私がフィリピンを訪ねたとき、識者の一人は「比国も台湾のように日本の植民地になっておればよかったのに、残念です」と述懐しておられた。

書籍「侵略の世界史」(3)おわりに 1、日本には侵略戦争は一つもない 自国民を略奪、強姦した支那兵

2017.08.15.11:36

次に日本の支那大陸侵略のまぎれもない証拠として宣伝されている支那事変も、中共軍の自作自演によるデッチ上げの謀略事件であった。
ソ連のスターリンが、敵同士、日本と蒋介石の国民軍を戦わせるために中共軍を手先として仕組んだ陰謀であった。

盧溝橋事件をきっかけとして、中共車は通州事件、上海事件と次から次へと反日、抗日のゲリラ戦を展開し、在支日本人と軍属を虐殺して、その鎮圧のため、日本軍が出兵せざるをえないよう無理矢理誘い込んだのであった。
支那事変は日本か好んで支那人陸に進攻したのでなく、無理矢理引きずりこまれた事件だった。

なお、盧溝橋事件は中共の仕掛けたことか明らかだったため、東京裁判でも、やぶ蛇になるからと、一切取り上げられなかったのである。

そもそも日本は中国に宣戦布告した覚えもなく、日中戦争など存在しない。中共軍とは直接戦っていないのだ。支那軍と日本車のまともな大会戦など一つもなく、ゲリラ掃討作戦にすぎなかった。
この長期の事変で支那民衆に耐えがたい苦痛を与えたのは日本軍でなく、支那兵だったのである。

このことについて蒋介石の米の軍事顧問・ウェッドマイアー将軍は回想録『第二次大戦に勝者なし』の中で、中国民を苦しい目にあわせたのは日本軍でなく支那兵だとはっきり証言している。
支那兵は逃亡に際して掠奪、放火、強姦のやり放題だった。それか唯一の彼ら兵士のボーナス、サラリーだったからである。

支那事変を操った存在としてソ連のスターリソと同時に、米国のルーズベルトも忘れてはならない。
米国は当初から大量の援蒋物資を送って、日本軍の大陸での長期の消耗戦を企てた。
ルーズベルトは日本打倒の日米戦争の前哨戦として支那事変を長びかせ、日本の国力を消耗させ、つづく日米戦を有利に始めようと策謀した。


このように支那事変は、米ソの日本打倒の代理戦争を蒋介石にやらせたのだ。要するに、米ソが主体となった白人の極東アジア侵略戦争であった。
以上のことから、明治以来日本には、侵略戦争は一つもなく、すべての戦争か自衛戦争で、白人勢力によるアジア侵略に巻きこまれた戦争であったのだ
プロフィール

南知隊!

Author:南知隊!
~南京の真実を知らせ隊~
略称『南知隊』
『南京大虐殺』と言う歴史歪曲による不当な冤罪を多くの人達にしってもらおう!
そんな想いを持った人々の集合ブログです。

最新記事
月別アーカイブ
カテゴリ
検索フォーム
南知隊ブロの中で検索したい事柄があった場合、↓の窓に語句を入力して「検索」ボタンを押すと、該当の記事が出ます。
通州事件の真実
RSSリンクの表示
リンク
ブロとも申請フォーム

この人とブロともになる

QRコード
QR
上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。