殉国七士廟

2016.06.17.20:36

殉国七士廟は、愛知県西尾市東幡豆町の三ヶ根山にある廟です。
愛知県三ケ根山麓が松井大将の故郷であり、「殉国七士墓」と彫られているとおりに七士の遺灰が碑石の下に奉られています。

GHQから奪い返した七士の遺灰を静岡県伊豆の興亜観音に手向けた極東軍事裁判弁護団の三文字正平氏らの配慮から、昭和三十五年(1960)8月に興亜観音から遺灰を分けて建てられました。

三文字氏は、昭和二十七年(1952)のサンフランシスコ平和条約締結と同時に廟の建設運動を開始しました。
そして、昭和三十三年(1958)4月28日、東京日比谷で開かれた極東国際軍事裁判弁護団解散記念会で墓碑建設を正式に発表しました。
その建立には、慰霊に裏付けされた現代史が刻まれています。
毎年4月29日昭和天皇誕生日には、殉国七士廟慰霊祭が行われています。

石碑の字は当時の首相・岸信介氏の揮毫です。
詳しくは一般社団法人殉国七士奉賛会公式ホームページで。
http://ki43.on.coocan.jp/

殉国七士廟
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興亜観音

2016.06.17.19:40

静岡県熱海市伊豆山の中腹に「興亜観音」と呼ばれる観音様が立っています。

興亜観音は昭和十五年(1940)二月、松井石根陸軍大将の発願により、支那事変での日支両軍の戦没者を「怨親平等」に等しく弔慰、供養するために建立されたものです。 

現在、大東亜戦争戦没戦士菩提碑(昭和19年)、大東亜戦争殉国七士の碑(昭和34年)、同殉国刑死一〇六八霊位供養碑(同年)も建立され、祀られています。

興亜観音は、正しくは「宗教法人礼拝山興亜観音」といいます。

宗教法人礼拝山興亜観音 の公式ホームページでは、次のように詠っています。
http://www.koakannon.org/
ーーーーー
このことにより、興亜観音は、大東亜戦争が自衛戦争であることを明確にされたと考えております。
ーーーーー

松井大将は昭和十二年(1937)七月、支那事変の勃発により、八月上海派遣軍司令官を命ぜられ出征、呉淞上陸より南京攻略までの指揮を執りました。松井大将は激戦による日支両軍の多くの戦後没者を悼み、凱旋帰国後熱海伊豆山に居を構え、供養のための興亜観音の建立を発願しました。

観音像は、激戦地である大場鎮・南京地帯の「戦場の」土を取り寄せ、作られました。慈しみの眼差しを遥か支那大陸南京の地に向け、合掌の姿で静かに祈りを捧げ続けています。

観音様は松井大将部下の戦死者二万三千百四柱の御霊を祀り、右には「支那事変日本戦没者霊位」、左には「支那事変中華戦没者霊位」と記された位牌が対等に祀られています。現在は大東亜戦争での全戦没者の御霊も弔い、供養しております。御霊には、戦争裁判による殉国刑死者(A・B・C級)千六十八名も含まれています。 

興亜観音と松井大将のお話については、こちらもご一読ください。
新春企画「松井石根物語」(承)/南知隊 2012.01.07
http://mayuryou1025.blog76.fc2.com/blog-entry-151.html


東方会議 (1927年) Wiki.より

2015.03.19.11:55

東方会議(とうほうかいぎ)は、1927年(昭和2年)6月27日から7月7日まで、南京事件や漢口事件のように日本の既得権益の維持と在留日本人の保護すら十分にできない幣原外交を是正するとともに政府の対華政策を確立することを目的に、田中義一兼摂外務大臣主催の形式のもとに外務大臣官邸で開かれた会議。

7月7日の会議の最終日に、「対支政策要綱」が発表され、当該国に通知された。
通知された国からは一つの抗議もなかった。

1926年(大正15年)7月、蒋介石を総司令とする国民革命軍は北伐を開始し、9月初旬には漢陽・漢口を占領、10月には武昌に入り揚子江を制圧した。
翌1927年(昭和2年)3月には上海、南京が占領された。

3月24日南京になだれ込んだ北伐軍は在留外国人に対し暴行掠奪を行う南京事件が発生した。
米英の軍艦3隻は射撃をあびせ、陸戦隊を上陸させて居留民の保護にあたったが、日本海軍は幣原外交の指令にもとづいて、北伐軍兵士の暴行と狼藉を傍観するのみであった。
このため幣原喜重郎外相の弱腰外交は痛烈に批判された。

1927年4月に成立した田中義一内閣は強硬外交を推進し、居留民保護と、張作霖への間接的援助と、中国の権益強化と拡大のために山東省に兵を送った(山東出兵)。
そして同年6月、田中義一首相は東京に閣僚・外務省首脳陣、中国公使、軍部首脳陣などをかき集めて、対中国政策についての方針を決めるための「東方会議」を開いたのである。

そして、会議では次のようなことが決定された。
当時、中国は中国国民党と中国共産党が覇権を争って内戦状態であり、軍閥が各地に分散していた。日本政府ではこの機を見て武力による大陸進出を図るべきという意見と、あくまで現在の権益を守ることを第一とするべきという意見があった。
田中義一はこれに対して、日本の権益が侵される恐れが生じたときは、断固たる措置を採る。つまり、「現地保護」し出兵も辞さない。
そして満蒙(満州と内蒙古東部のこと)における権益は中国内地と切り離して(満蒙分離政策)、同地域の平和のため(治安維持にあたり)日本が責任をもって支配下に置くなどが決定された(対支政策綱領)のである。
また、万が一中国の内乱が激化した場合には中国国民党と結んで、中国共産党による中国の共産化を阻止する方針も定められた。

ちなみに満蒙は日露戦争後、日本にとって大きな権益を有する重要拠点として見なされていた。

対米英蘭蒋戦争終末促進に関する腹案

2014.10.14.05:30

対米英蘭蒋戦争終末促進に関する腹案 
(昭和十六年十一月十五日 大本営政府連絡会議決定)


          方    針

一 速に極東における米英蘭の根拠を覆滅して自存自衛を確立すると共に、更に
  積極的措置に依り蒋政権の屈服を促進し、独伊と提携して先づ英の屈服を図り、
  米の継戦意志を喪失せしむるに勉む。

二 極力戦争対手の拡大を防止し第三国の利導に勉む。


           要    領

一 帝国は迅速なる武力戦を遂行し東亜及南太平洋における米英蘭の根拠を覆滅
  し、戦略上優位の態勢を確立すると共に、重要資源地域並主要交通線を確保して、
  長期自給自足の態勢を整う。

  凡有手段を尽して適時米海軍主力を誘致し之を撃破するに勉む。

二 日独伊三国協力して先づ英の屈服を図る。

   (1) 帝国は左の諸方策を執る。

    (イ) 濠州印度に対し攻略及通商破壊等の手段に依り、英本国との連鎖を
       遮断し其の離反を策す。

    (ロ) 「ビルマ」の独立を促進し其の成果を利導して印度の独立を刺激す。

   (2) 独伊をして左の諸方策を執らしむるに勉む。

    (イ) 近東、北阿、「スエズ」作戦を実施すると共に印度に対し施策を行う。

    (ロ) 対英封鎖を強化す。

    (ハ) 情勢之を許すに至らば英本土上陸作戦を実施す。

   (3) 三国は協力して左の諸方策を執る。

    (イ) 印度洋を通ずる三国間の連絡提携に勉む。

    (ロ) 海上作戦を強化す。

    (ハ) 占領地資源の対英流出を禁絶す。

三 日独伊は協力し対英措置と並行して米の戦意を喪失せしむるに勉む。

   (1) 帝国は左の諸方策を執る。

    (イ) 比島の取扱は差当り現政権を存続せしむることとし、戦争終末促進に
       資する如く考慮す。

    (ロ) 対米通商破壊戦を徹底す。

    (ハ) 中国及び南洋資源の対米流出を禁絶す。

    (ニ) 対米宣伝謀略を強化す。

       其の重点を米海軍主力の極東への誘致並米極東政策の反省と日米
       戦意義指摘に置き、米国輿論の厭戦誘発に導く。

    (ホ) 米濠関係の離隔を図る。

   (2) 独伊をして左の諸方策を執らしむるに勉む。

    (イ) 大西洋及印度洋方面における対米海上攻勢を強化す。

    (ロ) 中南米に対する軍事、経済、政治的攻勢を強化す。

四 中国に対しては、対米英蘭戦争特に其の作戦の成果を活用して援蒋の禁絶、
  抗戦カの減殺を図り、在華租界の把握、南洋華僑の利導、作戦の強化等政
  戦略の手段を積極化し以て重慶政権の屈服を促進す。

五 帝国は南方に対する作戦間、極力対「ソ」戦争の惹起を防止するに勉む。

  独「ソ」両国の意向に依りては両国を講和せしめ、「ソ」を枢軸側に引き入れ、
  他方日「ソ」関係を調整しつつ場合によりては、「ソ」連の印度、「イラン」方面
  進出を助長することを考慮す。

六 仏印に対しては現施策を続行し、泰に対しては対英失地恢復を以て帝国の
  施策に協調する如く誘導す。

七 常時戦局の推移、国際情勢、敵国民心の動向等に対し厳密なる監視考察を
  加えつつ、戦争終結の為左記の如き機会を捕捉するに勉む。

    (イ) 南方に対する作戦の主要段落。

    (ロ) 中国に対する作戦の主要段落特に蒋政権の屈服。

    (ハ) 欧州戦局の情勢変化の好機、特に英本土の没落、独「ソ」戦の終末、
       対印度施策の成功。之が為速に南米諸国、瑞典(スエーデン)、葡国
       (ポルトガル)、法王庁等に対する外交並宣伝の施策を強化す。

       日独伊三国は単独不講和を取極むると共に、英の屈服に際し之と直
       に講和することなく、英をして米を誘凛せしむる如く施策するに勉む。

       対米和平促進の方策として南洋方面における錫、護謨(ゴム)の供給
       及比島の取扱に関し考慮す。

南京安全区と南京安全区国際委員会

2014.10.12.22:50

南京安全区とは日本軍と中国国民党軍による南京戦に際し、南京市民や難民を保護するために南京城内の一画に設置された安全区(難民区)のことです。

南京戦に先立つ第二次上海事変(昭和12年(1937)8月13日~)にて、上海に住むフランス人宣教師・ジャッキーノ神父が南市の30万人余の中国人住民のため大規模な避難区域を計画して日中双方に了承を受け、南市避難民救助国際委員会を設置しました。
区域内に武器を携帯する者が在住しないことを宣誓し、日本側は区域内の非戦闘性が持続する限り攻撃しないことを約束し、上海市長の受諾を得て11月9日正午から正式に定められました。南京安全区は、この海南市難民区に倣い、南京大学の米国人教授たちにより提案されました。

南京安全区設立、そして運営の委員会が南京安全区国際委員会です。
委員会はアメリカ人宣教師を中心に、アメリカ人7人、イギリス人4人、ドイツ人4人の15名で構成されました。


「世界と日本」(59・4・5、413号)前田雄二氏(元日本プレスセンター専務理事)内外ニュース社発行
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「いわゆる“南京大虐殺”というのは、2、30万人という数は別にしても、主として住民婦女子を虐殺したものだ。ところが殺されなければならない住民婦女子は(全部)「難民区」内にあって、日本の警備司令部によって保護されていた。そして私の所属していた同盟通信社の旧支局はこの中にあり、入城4日目には私たち全員はこの支局に居を移し、ここに寝泊まりして取材活動をしていた。

すなわち難民区内が私たちの生活圏で、すでに商店が店を開き、日常生活を回復していた。住民居住区の情報はちくいち私たちの耳目に入っていたのだ。こういう中で、万はおろか、千あるいは百をもって数えるほどの虐殺がおこなわれるなど、あり得るはずはなかった。

すなわち「捕虜の処刑・虐殺」はあったが、それは戦闘行為の枠内で論ぜられるべきものであって、非戦闘員の大量虐殺の事実はなかった。それがさも事実があったかのように伝えられ、教科書にまで記載されていることは、見過ごしていいことではない。なぜ歴史がゆがめられたのか。それは、戦後の東京裁判史観によるものだろう。」

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プロフィール

南知隊!

Author:南知隊!
~南京の真実を知らせ隊~
略称『南知隊』
『南京大虐殺』と言う歴史歪曲による不当な冤罪を多くの人達にしってもらおう!
そんな想いを持った人々の集合ブログです。

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