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黄文雄氏に学ぶ日支事変史(02)虐殺史から支那史を読む/戦争がない時代はなかった中国

2018.05.20.17:59

虐殺史に浮かぶシナの心性 「日本軍の暴虐」はどう創作されたか 黄文雄(評論家・文明史研究家)別冊正論26号「『南京』斬り」(日工ムック) より
https://ironna.jp/article/4110

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虐殺史から支那史を読む

近代支那思想界の傑物・梁啓超は支那人を「戮民(りくみん)」と称した。頻繁な戦乱と虐殺から逃れられないからだろう。支那人が他人に無関心で、「他人の不幸を喜ぶ」メンタリティなのは、こんな中華世界に生きるからである。だから、今の中国人は「僥倖(ぎようこう)な生き残り」とも言われる。

支那史を「奴隷史」と読む者もいる。魯迅(ろじん)は「奴隷になろうとしてもなれなかった時代と、奴隷になれてしばらく満足している時代に二分すればいい」と説いた。支那史を虐殺史として読む根拠は、古代春秋戦国時代の穴埋めや屠城だけではない。民国時代の殺し合いや文革期の「武闘」もそうで、被害者は1億人以上とまで言われる。『共産主義黒書』には、人民共和国の血の粛清被害者は8千万人以上とある。

各王朝正史だけでも、類例なき「虐殺史」と読める。人民共和国になって論争にもなった唐「黄巣の乱」は、殺された民衆が800万人とされる。長安城外に巨大な舂磨砦(しようまさい)が造られ、捕獲民衆を日に千人この巨大な臼に入れ、骨ごとの人肉ミンチを生産し、乾尸(かんし)(干し肉)や塩尸(えんし)(塩漬け肉)まで作って兵糧にした。これは、正史『唐書』『新唐書』や『資治通鑑』だけでなく、アラビア商人の『印度・支那物語』にも出てくる話である。

黄巣の乱では、広州でも大虐殺があり、イスラム商人も虐殺され尽くした。近代でも、太平天国の虐殺はよく語られる。天理教(白蓮教徒)の乱では、広東で約百人が虐殺された。孫文が広州で軍政府をつくった際には、北方から「客軍」(外省人部隊)が乱入し、ジリ貧になった孫文は広州大虐殺を行った。

支那虐殺史の中では、四川の蜀(しよく)人は南方の越(えつ)人よりもっと哀れだ。秦に征服され、三国時代には蜀漢(しよくかん)として中原の魏、南方の呉と鼎立(ていりつ)し、『三国志演義』の舞台にもなった。蜀は中原の地から遠く離れた奥地であるが、「天下大乱の前にはまず蜀が先に乱れ、天下が鎮まった後でも蜀はまだ鎮まらない」と言われ、蜀人は三国時代に蜀漢から何度も大虐殺に遭い、人口がそっくり入れ替わることさえあった。明末の張献忠の大虐殺(屠蜀(としよく))では、女性だけでも400万人が殺された。

辛亥革命で中華民国となっても五代十国時代より激しい殺し合いに突入し、十数年間に蜀人の内戦が500回以上も起きた。知名な文学者・林語堂は、国民党の7年間の内戦だけで3千万人が死んだとし、そんな中国人を「敗類」(クズども)と呼ぶ。

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■■ Japan On the Globe(403)■ 国際派日本人養成講座 ■■■■
地球史探訪:戦乱の中国大陸~ 久しく合すれば必ず分す
 日本が反省すべきは、かくも混沌たる
中国大陸の内戦に直接介入した事である。
■■■■ H17.07.17 ■■ 33,189 Copies ■■ 1,690,692 Views■

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■1.三国志の歴史法則■

 中国との関係を考える上で忘れてはならないのは、「三国志演義」の冒頭にある次の「歴史法則」だろう。

 天下久しく分すれば必ず合し、久しく合すれば必ず分す

 広大な中国大陸では様々な地方勢力が相争い、そのうちの勝者が天下統一を果たす。やがてその勝者が力を失うと、また天 下は分裂して、地方勢力が戦いあう状態に戻る。

「三国志演義」は3世紀に後漢が滅びて、魏、呉、蜀の3国に分裂し、相争う様を描いているが、中国大陸ではその後も、統一と分裂が繰り返された。随、唐、宋、元、明、清と並ぶ統一王朝の間には、かならず大規模な戦乱の時代があった。

 明の末期は流賊が荒らし回り、疫病が大流行し、飢饉が全国を襲って、飢えた民衆の間では人肉食が日常的に見られた。満洲人とモンゴル人を主体とする清の八旗軍が北京をはじめ、各 地の都市に入城した時、民衆は乱世の救世主として、熱烈歓迎した。民衆にとっては支配者がどこの民族であろうが、治安を回復してくれれば、それで良かったのである。

 この清の滅亡後も、各地の軍閥が抗争し、中国大陸は乱れに乱れた。そこに介入したのが、ロシアを含む西洋列強と日本であった。

■2.相次ぐ天災、飢饉、反乱■

 清帝国は18世紀末に最盛期を迎えたが、その後は人口過剰とそれに伴う自然破壊で、飢饉、流民、反乱、内戦の自壊プロセスに陥っていった。日本人とは違って、もともと植林を行わない漢民族のこと、エネルギー源として樹木を乱伐し、その結果、降雨が多ければ洪水、少なければ干魃に苦しめられる。

 1810年の山東大干魃、河北大洪水、湖北霜害で900万人が死亡し、翌年には2千万人が餓死した。1849年の大飢饉では1375万人、1876~78年の大飢饉では1300万人が餓死している。
[1.黄文雄『日中戦争 真実の歴史』★★★、徳間書店、H17,p106]

 こうした災害のたびに、大量の農民が土地を失って流民と化し、その一部が盗賊となって、他の土地を襲う。さらに新興宗教が興って、流民を吸収しつつ、大規模な反乱を起こす。
 1851年から14年間、猛威を振るった太平天国の乱は、推定死者数5千万とも言われる世界史上最大規模の内戦だった。キリスト教と道教的土俗信仰が結合したカルト集団で、満洲王朝打倒を旗印に、「戦死することは昇天することである」と民衆に信じ込ませて、北京に迫った。こうした新興宗教による反乱が何度も繰り返された。

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戦争と殺戮ばかりの国・中国 『徳間書店』黄文雄(評論家)《徳間書店『世界に災難をばら撒き続ける 中国の戦争責任』より》
https://ironna.jp/article/3342

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戦争がない時代はなかった中国

中国ほど戦争をしてきた国はない。また、自国民を含めた殺戮を行ってきた国もない。共産主義の中国になってからでさえ、チベット侵攻(一九四八─一九五一)、中印戦争(一九六二)、中ソ国境紛争(一九六九)、中越戦争(一九七九)を行い、加えて南シナ海の東沙諸島、西沙諸島を略奪し、現在は南沙諸島を自国領土に編入しようと目論んで、フィリピンやベトナムと衝突を繰り返している。『共産党黒書』(ステファヌ・クルトワ、ニコラ・ヴェルト著、恵雅堂出版)によれば、二十世紀において中国の共産主義によって犠牲になった人々は六千五百万人にのぼるとされている。しかし、それはなにも二十世紀にかぎってのことではない。台湾の歴史家であり作家でもある柏楊(はくよう)氏は、中国史上「戦争のない年はなかった」とまで言っている。

中国はそもそも、歴史が連続した国ではない。現在の中華人民共和国は一九四九年の成立だが、その前は清朝であった。中国は秦の始皇帝による統一から、易姓革命(皇帝の姓が変わる、つまり王朝交代)を何度も繰り返してきた。元、清のように異民族によって支配された時代もあった。「万世一系」の日本人にはわかりづらいかもしれないが、易姓革命ということは、まったく違う国に取って代わられるということだ。それは改革でも変化でもない。だから「革命」という言葉が使われる。王朝交代時に戦乱を伴うのはもちろんのこと、謀反や反乱、内乱、農民蜂起などが日常的に頻発しており、そのため中国は「一治一乱」(治めたと思えばすぐに反乱が起こる)だと言われてきた。

太古から資源や領土の奪い合いを繰り広げてきた中国は、現在もなお、他国領土に対する侵略を続けている。東シナ海、南シナ海での中国の身勝手な振る舞いはその典型である。

もちろん戦争は一騎討ちから総力戦に至るまで、戦争の型はさまざまである。‐唐の玄武門の変のように兄弟の戦争から、明の靖難(せいなん)の変の叔父と甥、漢の武帝と皇太子との長安の都での親子の決闘もある。無辜の「難民」も出る。私の小学生のころに国共内戦後に追われた中国から数十万人の難民と学校の教室を生活の場として共有共生したこともあった。決して遠い昔々の話ではない。

自国民虐殺だけでなく、異民族虐殺も中国では現在進行形の「犯罪」である。儒教の国である中国では、中華の民とそれ以外の民を厳しく峻別してきた。中華以外の国は夷狄(未開の野蛮人)であり、獣と等しいと考える。そのため獣偏や虫偏をつけて「北狄」「南蛮」などと呼んできた。これを中華の徳によって文明人に変えることが「徳化(王化・漢化ともいわれる)」なのである。そして、儒教の発展理論である朱子学や陽明学では、天朝(中華の王朝)に従わない異民族は天誅を加えるべしという論となり、正当化されている。

十九世紀末から現在に至るまで延々と続くイスラム教徒(ウイグル人)の大虐殺、十六世紀の明末から十九世紀の清末に至るまでの西南雲貴高原の漢人による少数民族のジェノサイド、辛亥革命後の満洲人虐殺、通州事件などの日本人虐殺、人民共和国時代の文革中の「内モンゴル人民革命党員粛清」に象徴されるモンゴル人大虐殺、チベットに対する数百万人の虐殺と文化抹殺、台湾人に対する二・二八大虐殺など、近代中国人によって行われた民族浄化の大虐殺……近代中国では、こうした人類に対する犯罪がまかり通っているのである。

-こうした異民族に対する優越意識、さらにはすべて自らが世界の中心であると考える中華思想が、現在の中国においても、かつての王朝が統治していた場所のみならず、「歴史書に記述があった」くらいの場所までも、すべて自分たちのものだと主張する大きな要因となっている。だが、これらについてはまったく根拠がない。-それについて簡単に述べると、

①中華歴代王朝は、漢の時代からだけでなく、春秋戦国時代まで遡っても、城や関による国禁(入出国の禁止)が厳しく、戦国時代に築かれた長城や秦時代の万里の長城がそのシンボルである。それ以外にも、明時代には南方の苗(ミャオ)族を防ぐために建設された「南長城」まで発掘されている。それほど中原より外の世界との関わりあいは避けてきたのだ。

漢以後の歴代王朝も陸禁(陸の鎖国)と海禁(海の鎖国)がますます厳しくなっていった。たとえばもっとも開放的で国際色豊かとされる唐でさえ、その国禁については、鑑がん真和上の日本への密航や、渡唐僧の空海らの入った唐、三蔵法師玄奘和尚が陸禁(関所越えの禁止)を犯して天竺に取経に行った故事がその真相を物語っている。

②海洋的思考や海上勢力、航海力、海の英雄譚さえなかったのは、史前から典型的なハートランド国家であったからである。宋は陸のシルクロードのすべてを北方雄邦に押さえられ、江南まで追われた。明は北虜南倭(ほくりょなんわ)(北のモンゴル人と北の倭寇)に悩まされ続け、清は広州十三洋行という海の窓口しかなかった。

海については、海岸から五十里の居住禁止や「寸板不得入海」(一寸のイカダでさえ、海上に浮かべることは禁止)など、海に出たら「皇土皇民」を自ら棄すてた者、「棄民」とみなされた。華僑も例外ではない。帰国断禁どころか、厳しい場合は一族誅殺、村潰しまでの悲劇が避けられなかった。

③宋の時代の海への知識は、華夷図が代表的で、海南島はあっても台湾の存在さえ知らず、南海は未知の領域であった。

④東亜大陸の民は、原住民の原支那人の先祖たちも、華夏の民・漢人も、基本的には農耕民か城民としての商人、それ以外に、満洲人も狩猟採集民だった。モンゴル人などの遊牧民を除いては、土地に縛られる陸の民と言える。古代東アジアの北から南洋、さらにインド洋に至るまで、河川、湖沢、海岸に暮らし広く分布していた倭人は、不可触賤民として、中国人どころか天民や生民とさえみなされていない。

陸の民は太古から海を忌避し、暗黒の世界とみなしていた。字源にしても、黒は海と同系の発音である。海は有史以来、中土、中国としては認められていなかった。陸を離れてなおも「絶対不可分の神聖なる固有領土」とする与太話は、正常な人間なら絶対に認知すべきではない。

⑤今の中国人は「近代の国際法は西洋人が勝手につくったものだ。中国はもうすでに強くなったので、一切認めない」と主張するが、大航海時代以後の海洋に関する諸法を認めるとか認めないとか、あるいは勝手につくるとかしても、それはあくまでも中国だけの都合である。

そもそも太古から海洋をずっと忌避してきた中国人は、海洋とは無縁であり、法をつくる能力もない。海洋に関するかぎり、中国がいくら理不尽な主張をしても、ただ強欲を口にしているだけで、そこにほとんど説得力はない。

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中国こそ逆に日本に謝罪すべき9つの理由―誰も言わない「反日」利権の真相 単行本 – 青春出版社, 2004 /3  黄 文雄 (著)

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第6章 「教育のない国」が世界へまき散らす害毒

中国史に欠かせない「虐殺」の伝統文化

虐殺とは中国伝統文化の一つで、戦争では欠かすことのできない中国軍の慣習である。もし部下に住民への虐殺や略奪を許さない将軍がいれば、名将にはなれないどころか部下に逆襲されるだろう(p151)

戦乱と飢饉に明け暮れた災厄の中国

私は小学校二年生で終戦を迎えた。-国共内戦に敗れた蒋介石の軍隊や、難民二百万人が台湾になだれ込み、学校へも次から次へと兵隊が入ってきた。-私はいわば中国兵と共同生活をしていたわけだが、彼らのほとんどは文字が読めず、-また不衛生極まりなく、しばしば盗みや婦女暴行を働いていた。

このように台湾人が見た中国人とは、無知蒙昧の野党集団だった。-イナゴの大群のようにやってきた中国人の恐ろしさは、文明摩擦ともいうべき大ショックだった。-日本統治下の法治社会で安心して暮らしていた台湾人は、原爆以上の悲惨な被害を受け、立ち直れなくなったということだ。-中国社会で生きることとなった台湾人は、かって日本人に学んだ誠や、正直を、座右の銘にしていたことが仇になった。

80年代後半に、人類史上最長と言われた戒厳令が解除されるまで、無数の台湾人が、身に覚えのない罪を押し付けられ、政治犯として投獄され、拷問にかけられ、あるいは処刑されたのだ。-政治犯にされた人数は、台湾文献協会の記録によると、10万人以上に上っている。もちろん、その家族も犠牲者である。

18世紀末以来、立て続けに反乱が起こった中国では、太平天国の乱で人口の5分の1が、回乱では10分の1が虐殺されたと推定されているから、-中国政府の住民虐殺は実に凄まじい。-中華人民共和国となってからも、文化大革命で二千五百万人、反革命分子の一掃で二千四百七十万人、大躍進で二千二百五十万人、抗日戦争時代の内部粛清で六百万人等々、-これらの数字がどこまで正確かはわからないとしても、中国共産党が虐殺文化の継承者であることは間違いない。

中国帝国最後の王朝となった清は、中華文化圏外の満州に興り、まず中華世界を征服したのち、-モンゴル、新疆、チベットを呑み込んで、明王朝の三倍もの巨大な版図を築き上げた。-そのような清の侵略、植民地支配や、その意思と遺業を継ぐ現在の中国を不問にして、-日本の " 過去の一時期 " のみを譴責する日本の文化人は、あまりにも独善的ではないのだろうか。

日本が中国に侵略した、いわゆる " 過去の一時期 " というのは、中国の天下の崩壊時期にあたり、-複数の政府が乱立し、軍閥内戦、国民党内戦、国共内戦の大混戦が延々と繰り広げられていた、まさにカオスの状態だった。-どの政府も中国の代表だと主張しながら、対外的に一国の政府として責任を負えることのできるものは、一つもなかった。-つまり中国は、国家としての体をなしていなかったのである。

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佐藤和男氏談〈東京裁判史観をめぐって〉

2017.07.19.20:16

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戦後、国際法を教えておられた東京大学の横田喜三郎先生が「もう戦時国際法は必要ない」というようなことをおっしゃり、また東京裁判を支持されました。当時、横田先生は国際法学会の理事長を務められ、非常に大きな影響力をお持ちでした。そのような状況下で、日本の国際法学界では、東京裁判を批判することはタブーになっていったわけです。したがって、国際法の観点で先の戦争の問題に触れた論述は非常に少なく、ましてや横田先生がご健在のときに、先生の東京裁判擁護説に反対することを書いたのは、おそらく私だけではないかと思います。
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戦後、日本にすべての戦争責任がありそれを贖罪しなければいけないといった、いわゆる「東京裁判史観」が日本社会に蔓延しています。ところが、まずその肝心の東京裁判自体がどのようなものだったのかということについては、あまり真剣に再検討されていません。ー文献等が少ないのも事実です 。戦争を体験した世代の高齢化も進んでいます。そのような状況下で、被占領時代以降の戦後教育を受けた日本の新しい世代は、程度の差こそあれ、この東京裁判史観の影響を強く受けて育ってきました。そして、戦後はや60年。この日本民族の精神を退廃させてやまない東京裁判史観を根絶するのは、もう今しかありません。
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国際法の観点から考える東京裁判の正しい理解 佐藤和男 氏 植草学園短期大学学長/青山学院大学名誉教授
聞き手 株式会社東京リーガルマインド代表取締役 反町勝夫
http://www.lec-jp.com/h-bunka/item/v260/38~43.pdf


ここで「東京裁判史観」とは、一般的にどのように捉えられているのか、Wiki.を参照します。
〜〜〜〜〜
自虐史観とは、太平洋戦争(大東亜戦争)後の日本の社会や歴史学界、教育界における特定の歴史観を批判・否定的に評価する言葉である。日本の歴史の負の部分をことさらに強調する一方で、正の部分を過小評価し日本を貶める歴史観のことを指す。ほぼ同種の造語として、日本悪玉史観、東京裁判史観がある。また、「自虐史観の病理」の著者である藤岡信勝は自虐史観の対義語として「自由主義史観」を提唱した。
〜〜〜〜〜
極東軍事裁判(東京裁判)において、南京事件の犠牲者は20万人という数字が提示されました。
そしてこの数字が、大虐殺の象徴となったのです。
大東亜戦争(太平洋戦争)にはもうひとつの数字があります。

終戦時の原爆投下による広島・長崎の推定急性(被爆から2-4カ月以内)死亡者数
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広島市 9万-16万6千人
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長崎市 6万-8万人
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http://www.rerf.or.jp/general/qa/qa1.html

20万人前後の本当のアトロシティーズ(大虐殺)の数字がここにあります。
広島の原爆志望者慰霊碑には「安らかに眠って下さい 過ちは繰返しませぬから」と日本語で書かれています。
何を過ちと認めたのか、敗者のいわゆる侵略戦争そして南京大虐殺なのか、それとも勝者の原爆投下なのか。
私は、これこそ「東京裁判史観」そのものだと思っています。
南京事件の責任を負って裁かれた先人たちの名誉を回復することこそ、東京裁判史観からの脱却につながると思っています。



佐藤和男「そしてあの、昭和22年には「戦争犯罪論」という本を書物をお出しになりまして、そして東京裁判を非常に強力にですね擁護、弁護なさったんですね。」
渡部昇一「あたかも法律に基づいたの如くね、」
佐藤和男「そうなんです、それで私どもまだ若い大学院の院生でそういう本を読ましていただいたんですけれど、最初は
敬意を表して読もうと思ったんですけど、読んでいきましたらね、非常にですね矛盾してるんですね、ですから私どもは分がまだ大学院生でしたけど、分を弁えずに批判したもんでございますけどね、まともな法律を勉強した方がまともな読み方をしたら到底認められないような形で東京裁判を弁護してらっしゃいましたね、ところがですね、読売新聞昭和23年にですね、「昭和天皇退位論」をお書きになりまして軍国主義的、帝国主義的代表昭和天皇はですね、当時は今上陛下ですけれども、天皇はですね退位されるべきだと、いうことをお書きになりましてね、それでこれが随分日本国民にですね間違った意識を植え付けてましたですね。」
渡部昇一「私の友人に谷沢永一って方が文献学者がいるんですがやはり文献学的に、あの人は文献学的にやるんですが、横田さんの書いた物を調べてみたら、何かこうね、最高裁判所長官とかね、文化勲章とかね、その匂いがし始めたらね、どんどんどんどん軌道修正して(笑)」
佐藤和男「これは噂話ですけど、「戦争犯罪論」を文化功労賞になられ、そしてまた文化勲章を受章されたと、その時に
はですね方々から回収に努められたと、これ努めてね「戦争犯罪論」を集められたという噂を聞いたおりますね。」
渡部昇一「私もその噂を聞いたものですからね、持っています。(笑)集めました。」
佐藤和男「東京大学のね国際法の教授で、国際法学会の最高の責任者でいらっしゃったそういうお立場の方がですね、東京裁判のね翻訳係になってね、白金の服部マンションでね缶詰になっていらっしゃったというのは非常に残念でしたね、あの京都大学の田岡良一博士とか、早稲田大学の一又正雄教授というですね国際法の立派な先生方が嘆いておられました。これはね俗っぽい話で恐縮なんですが田岡良一博士ですね、横田博士とはね外務省で外交官試験の国際法の面接委員をなさっておられたんです。ところがお二人は廊下ですれ違っても挨拶のなさらないという間柄であったと言われてますね。田岡博士はGHQの特別な配慮でアメリカへ占領中に研究に行かれましてハンス・ケルゼンというですねご存知だと思います。ウイーン大学の教授で、横田喜三郎さんの恩師ですね、ユダヤ系ですから後にハーバード大学へ移られまして最後にはカルフォルニアの大学へ移られました。私も60年代にお目にかかったことがありますが、田岡博士が、ケルゼン博士とお会いになって、ケルゼン博士がですね、「日本が国を挙げて無条件降伏したなんてそんな出鱈目はないぞ」と大笑いされたんですね。それで田岡博士はですね26年ですか、アメリカから帰ってこられまして、朝日新聞が一つ訪米記を書いてくださいといったら、田岡博士がですね実はケルゼン博士がね、「日本が無条件降伏したなんてとんでもない」と言って大笑いしたことを書きましたらね、朝日新聞はですね占領軍総司令部のねお怒りに触れることを恐れましてね没にしてしまったんですよ。田岡博士は非常に怒られたんですね。日本がね国として政府としてね無条件降伏したなんてナンセンスだということをケルゼン博士がちゃんと喝破されたんです。20世紀最大のね国際法学者ですからね。」

「アメリカの鏡・日本」(7)歴史の復活

2017.06.21.19:50

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 私たちの現在の韓国政策は、実は日本軍国主義を免罪しているのだ。アメリカの「安全保障」のために秩序を維持し、ソ連を押さえ込み「共産主義の脅威と戦う」ために、韓国に軍隊を駐留させる必要があるなら、日本が韓国だけでなく、満州と中国に軍隊を駐留させることのほうが重要だった。私たちは自分たちの行為なら犯罪と思わないことで日本を有罪にしている。これは正義ではない、明らかにリンチだ。
 韓国国民の幸福と言う点でいえば、私たちの政策の方が日本より悪い。日本の韓国統治が、自由と民主主義の原則からみて悪であったにしても、平均的国民の生活と自由という点では、状況は今よりはるかにましだった。今日、韓国国民は一人の主人に代わって二人の主人をもっている。韓国経済の安定は完全にくつがえった。そして国は経済的に二つの地域に引き裂かれている。朝鮮民族はソ連とアメリカに率いられる二つの陣営に分けられようとしている。朝鮮民族は解放されるどころか、事実上、敵対するブロックの傭兵部隊にされている。

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 第二次世界大戦後は、アメリカとソ連が圧倒的な力を発揮して、世界を逆戻りさせているのである。そこで極東における国際法が改善されたかどうかを知るために、在満鉄道と旅順をめぐる争いを簡単に振り返ってみたい。

1896年:ロシアが満州とウラジオストクを結ぶ鉄道建設のための租借権を清国から得た。日本を狙った秘密条約で合意が交わされた。八十年間で中国まで鉄道を延ばすというものである。中国は共同経営者だが、運営はロシアに一任する。これが、いわゆる東清鉄道である。

1898年:ロシアは清国政府から中国東部と旅順港を結ぶ南満州鉄道の建設権を得た。旅順港は、日清戦争後、ロシアが日本の介入を防ぐのを助けた見返りに、中国から得たものである。

1905年:日本が日露戦争の賠償として、ロシアから南満州鉄道を獲得した。東清鉄道は引き続きロシアが保持した。

1931年、満州事変

1932年:満州各地区の代表が瀋陽に集まり、「独立」国家満州の建国を宣言。日本に協力と保護を要請した。ソ連が「事実の論理」を認め、日本の仲介で東清鉄道の権益を満州国へ売却することを提案する。

1935年:ソ連が東清鉄道を一億四千万日本円で満州国に売り渡した。

1943年:「三大国」首脳がヤルタで会談し、イギリス、アメリカ、ソ連が秘密協定を結んだ。東清鉄道と南満州鉄道は「中ソ合弁会社が所有すること、ソ連に最大発言権を保証すること、中国の主権が満州に及ぶことを確認した」。この点について、F.D.ルーズベルトが蒋介石の承諾を得ることになった。


 四十七年間の「進展」が、これら戦略的鉄道の環境を1896年の状態にもどした。唯一の変化は、日本が注ぎ込んだ膨大な投資を、ソ連がアメリカとイギリスの協力で、自分の物にしたことである。米英両国代表団がこの取り決めから、何を日本に教えようと考えていたかは定かでない。しかし、彼らが、この取り決めは民主主義と自由を愛する心の表れであるとか、国際関係の「新路線」の表れである、と考えていたとしたら、そのわけを知りたいものである。
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もう一つの逆戻り

 渤海湾への入り口と天津、北平(北京)への道を制する遼東半島先端の戦略的港湾、旅順港をめぐる状況はどうだったろうか。


1895年:日清戦争。日本が勝つ。中国は旅順港と遼東半島の先端部を割譲することになったが、フランス、ドイツが後押しするロシアが抗議。日本は極東平和のために要求を撤回した。

1898年:ロシアが旅順と遼東半島約1300平方マイルについて25年間の租借権を得る。

1945年:再びヤルタ。ルーズベルト米大統領、チャーチル英大統領、スターリン・ソ連首相が会談。旅順は再度ソ連に移譲されることになった。このほか、ヤルタは次の諸事項をソ連に保証している。(1)外モンゴルの現状維持。(2)・・・南樺太の割譲。大連港の国際化。「同港におけるソ連の最大発言権・・・」を保証する。(3)千島列島(どう見ても日本列島の一部である小島郡)のソ連への割譲。


 ヤルタ協定には次のような文章が入っている。
「三大国首脳は、ソ連の主張は日本の降伏後異論なく完全に達成されることで合意した」、「外モンゴル、港湾、鉄道に関する合意には・・・蒋介石総統の承諾を求めるものとする。米大統領はスターリン元帥の勧告を入れ、この承諾を得るための措置を講じる」
 アメリカの政治家たちはいまだにこうしたことを「合法的に」やっている。
 国際問題を正しく理解するには、ヤルタ協定をもっと詳細に見る必要がある。ヤルタ協定を考える場合、①満州の歴史、②私たちがパワーポリティクスと、「暴力と貪欲」を否定するに際して、イギリスとアメリカの政策立案者が発した高邁な宣言、③ヤルタの取り決めにおける中国の立場、④国際関係における「合法性」の概念、の諸点から見ると、西洋列強が「後れた」地域を「指導」する場合の教育システムの間違いが、実に鮮やかに浮かび上がってくる。
 たとえば、「合法性」についての考え方である。在満鉄道の移譲を要求するソ連の法的根拠は何であろうか。彼らは中国東部を二回にわたって「法的に」手放したのだ。一回目は、中国のために要求を放棄した。これは見事だった。二回目は、満州国に売却した。したがって、ソ連への割譲は、対日戦争に協力する見返りであったことは、一目瞭然である。

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 もう一つ「合法性」にかかわる問題がある。ヤルタ会談の時点では、ソ連は日本と戦争していなかった。そればかりでなく、日本との間で不可侵条約を結んでいたのだ。イギリスとアメリカは、具体的条件を出して、ソ連が特定の期日をもって不可侵条約を破棄するお膳立てをしたのだが、両国代表団はそれを「違法」とは考えていないのだ。その結果として、アメリカは八月六日原爆を投下し、ソ連は八月八日宣戦を布告、翌九日に参戦した。
 ソ連はこの行為によって、英米両国政府から日本の領土と財産、満州つまり中国の財産を贈られたイタリアがフランスに対して、全く同じことをした時は、両国から「裏切り行為」として激しく非難された
 アジア人は一連の出来事をパワー・ポリティクスの最もひどい見本と思っているはずだ。アメリカ人に、それがわからないなら自己欺瞞である。ソ連が日本などの領土と財産を得ることができたのはなぜか、政治意識を持つアジア人には、やがてはっきりするだろう。つまり、ソ連はたまたまいいとき(強大国が敵との戦いで味方を探しているとき)に、いい国(強大国)として友邦(つまり、いい国の側に立って戦うこと)になっただけのことなのだ。

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 今日私たちがいっているように、連が「世界の脅威」であり、日本を支援(日露戦争時代)した、かつての米英両国の政策担当者が正しかったとすれば、ソ連を抑止し、「混乱した」地域に秩序をもたらし、中国における「共産主義の脅威」と戦う行動拠点を確保するために、満州を緩衝国家にしようとした日本を支援しなかった1931年以降の米英両国の政策担当者は、犯罪的に無能だったことになる。そして、対日関係をパールハーバーとシンガポールまで悪化させ、その結果、私たちの生命と財産ばかりでなく、極東の同盟国を失ってしまった政策担当者の無能ぶりは、犯罪をはるかに超えたものであるというほかない。
 わたしたちの政策担当者は、パールハーバー以前の政策と現在の政策をどう整合させようとしているのか。何百万の生命と何十億ドルに相当する物量と人力をかけて、わたしたち自身の民主主義をぶち壊してしまう前に、政策担当者は「脅威」の実体について、もっと透徹した思索をめぐらし、揺るぎない決断を下すべきなのだ。

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「アメリカの鏡・日本」(6)なぜ日本を占領するか

2017.06.21.19:32

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 私たちの占領はどう見ても日本の軍事力に対する防衛的軍事行動とはいえない。もし対日戦争の目的が日本の戦争機関、軍事生産、軍事生産能力を破壊し、その台頭を許した国民を罰することであったなら、占領は必要なかった。なぜなら、私たちが日本に上陸する前に、その目的は達成されていたからだ。戦争それ自体の結果として、日本は「二度と侵略戦争が出来ない状態に置かれていた」。
 軍事的にいえば、占領は単に警察官の役割を果たしているにすぎない。日本軍の武装解除と残存する軍事装備、貯蔵物資の解体を監視するだけのことなのだ。この仕事は二ヶ月で終わった

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 それならば、なぜ、と問いかけたい。日本は完全に無防備であり、文字通り一隻の軍艦、一機の戦闘機、いかなる種類の飛行機ももっていないのだ。武装解除され、非武装化され、産業は戦前のほぼ三分の一にまで縮小され、国民は日常の食べ物に事欠き飢餓状態にあるというのに、どうしてこの国を軍事占領し続ける必要があるのか
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 西洋列強はいま、日本を厳しく糾弾している。
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 日本の本当の罪は、西洋文明の教えを守らなかったことではなく、よく守ったことなのだ。それがよくわかっていたアジアの人々は、日本の進歩を非難と羨望の目で見ていた。
 日本と他のアジア諸国の地位の違いは、人間としても国家としても、はっきりしていた。日本は「有色」人種の中でただひとり、ほぼ完全平等の地位を与えられていた。中国人は自分の国にいながらクラブや租界に入れなかったのに、日本人は事実上「白人」として受け入れられていた。開港地の中国人苦力は蔑まれていたが、日本人の召使は「ボーイさん」と呼ばれていた。インドシナの住民登録簿には、日本人は「ヨーロッパ人」として記載されたが、中国人は「原住民」だった。
 国家としての日本は西洋の基準をよく守り、よく報われた小さい日本が大国として認められ、中国では白人の特権を分け与えられた不平等条約の恩恵にもあずかっていた。そうでなければ、満州と華北で行動できなかったろう
 大中国は西洋の基準が守れなかったために、自国の河川にいる外国の軍艦、主要貿易港に駐留する外国軍隊、自国政府と財政を握る外国権力に従わなければならなかった。

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 政治意識を持つアジア人は日本の輝かしき成功から何を学ぶべきか、よく理解していた。中国の革命指導者孫逸仙(孫文)は「三民主義」の中で次のように書いている。
 ベルサイユ講和会議で、日本は五大国の一員として席に着いた。日本はアジア問題の代弁者だった。他の諸国は、日本をアジアの「先頭馬」として認め、その提案に耳を傾けた。白色人種にできることは日本人にもできる。人間は肌の色で異なるが、知能には違いがない。アジアには強い日本があるから、白色人種は日本人もアジアのいかなる人種も見下すことはできない。日本の台頭は大和民族に権威をもたらしただけでなく、アジア全民族の地位を高めた。かつて我々はヨーロッパ人がすることは我々にはできないと考えていた。いま我々は日本がヨーロッパから学んだことを見、日本に習うなら、我々も日本と同じように西洋から学べることを知ったのである。

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「アメリカの鏡・日本」(3)誰のための戦略地域か

2017.06.20.20:37

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 蒋介石のオーストラリア人顧問、W・H・ドナルドがルソンの日本軍捕虜収容所から解放されたあとのインタビューで語ったところによれば、日本は1938年から1941年の間に「十二の和平案」を行っている。
 日本側の条件は中国側に「有利」なものだった、という。つまり、日本の要求は、満州国の独立の承認、華北の経済と開発に関する何らかの権利、「外蒙古から及ぶロシアの影響力の伸長を阻止するための内蒙古の政治的調整」だけだった。ドナルドは「日本はこれらの提案の中で、領土的要求はいっさいしていない」と語っている。

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 どちらが戦争を始めたかはともかく、私たちの戦争目的は、日本のアメリカ征服を阻止することではなく、日本を征服することだった
 戦前、戦中を通じて、日本が帝国の一部として、あるいは委任統治領として支配する地域に攻め入り、アメリカ本土からはるか遠くに広がるアジアの島と領土を占領することがアメリカの目的だった。そしてついには日本の本土を占領することが私たちの目的だったのだが、ふくれあがった軍国主義日本の虚像がこの事実から私たちの注意をそらしてしまった。

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 日本の戦争機関は一度も「アメリカの安全を脅かした」ことはなかったのだ。日本が実際にやったことと言えば、私たちの海岸線から3700キロも離れた軍港にいる艦船を爆撃したことである。彼らが私たちの大陸に最も近づいたのは、3000キロ離れたアリューシャン列島の島の二つを占領した時である。それも攻撃の先鋒としてではなく、アメリカの攻撃を遅らせるための自衛手段だった。
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 スチムソンは、日本が降伏しない場合は11月1日に本土上陸することを決定していたと述べている。そしてこの作戦では「米軍だけで百万の死傷者」を覚悟していたというが、これは恐ろしい決定である。これだけの命が懸かっているのに、私たちは降伏するつもりの(同年3月以降のこと)日本のスポークスマンを受け入れて、降伏の用意があるかないかを確かめようともしなかった。私たちは勝手に、日本は降伏しないと決め付けていた。米戦略爆撃調査の報告を読むと、もし私たちがポツダム会議で日本の意向を聴取していたら、ポツダム宣言も、原子爆弾も、本土上陸作戦も必要なく、降伏を準備できたように思われる
 日本政府の頑迷派に圧力をかけるためなら、女子供の命を蒸発させることも「優れて適切な」手段であるというスチムソン元陸軍長官の言明が、戦争の熱いさなかだけでなく、日本の降伏から一年半も経ったというのに、いまだに記事になり、広く容認されている。この事実は、私たちの選んだ社会理念が、私たちが思っていたほどには明確でなかったことを物語っている。
 私たちは他国民の罪だけを告発し、自分たちが民主主義の名の下に犯した罪は自動的に免責されると思っているのだろうか

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 疑問はもう一つある。それは対日戦争の最終段階にかかわる疑問である。
 私たちは最後の最後になぜあれほど焦ったのか。日本が少なくとも三ヶ月間にわたって、降伏への道を模索してきたことを知りながら、なぜ決断までに11日しか待ってやれなかったのか
 この疑問に対する答えは、アメリカと日本の関係ではなく、アメリカとソ連のやりとりにある1945年2月7日のヤルタ会談における「最高秘密」合意で、ソ連は中国領内の一定領土及び財産を確保することを条件に、対日戦への参戦を約束した。ソ連としては、彼らが参戦して「合法的」に戦利品を要求できるまでは、日本に降伏して欲しくなかったのだろう
 一方私たちは、もし日本が即時無条件で降伏してしまったら、ソ連は参戦しようがすまいが、日本に侵入してくると見ていたから、日本がソ連に和平条約を提示することを望んでいなかった。そして、日本が無条件降伏をしない場合は、満州と朝鮮に駐留する関東軍をソ連に抑えさせようとし、同時に、ソ連が来る前に日本本土を占領しようとしていたのだ。
 もし、この分析が正しく、これ以外に事実を説明できる分析がなければ、わたしたちは日本の一般市民十数万を大量虐殺してでも、早急に結論を出そうとしていたということができる。もしこれに失敗したら、数十万の米兵を犠牲にしてでも、計画通り日本上陸作戦を敢行しようとしていた。私たちが日本人に対してつかった原子爆弾は、日本に対して使ったのではない。なぜなら、日本はすでに完全に敗北していたからだ。
 原爆はソ連との政治戦争に使用されたといえる占領は私たち自身の政治・経済目的を達成するための装置だこの目的に日本人が関係してくるのは、たまたま日本人が戦略的に重要な島に住んでいるからにすぎないのだ

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Author:南知隊!
~南京の真実を知らせ隊~
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『南京大虐殺』と言う歴史歪曲による不当な冤罪を多くの人達にしってもらおう!
そんな想いを持った人々の集合ブログです。

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