河村たかし名古屋市長殿へ

2012.03.03.00:26

前略

2月20日の中国共産党南京市委員会幹部の皆様との懇談の席において、日本軍による南京虐殺事件はなかったのではないかと問題提議していただいたこと、本当にありがとうございました。

私も、河村市長と同じく、南京攻略戦は戦時の通常の戦闘行為であったと理解しています。

しかし、国際社会のバランスの中で責務を果たさなくてはならない日本の政治家のおひとりである河村市長がそのように発言することは、たとえそう考えていても、実は簡単なことではないのかったのかもしれません。

その上で「(歴史認識を)正すのが私の社会的、政治的使命」「この問題だけはきちんとして、日本の将来の子どもたちのためにプレゼントしたい」とまで言っていただき、重ね重ね感謝いたします。

南京事件では、当時の南京市の人口の推移、中国国民党軍の内乱、便衣兵(ゲリラ)が捕虜となったこと、さらには虐殺事件そのものの証しが全くないのです。
その上で中国は30万人が虐殺されたと宣伝する南京虐殺資料館を世界遺産にしようと推挙しています。
河村市長の意見に対しては「南京大虐殺は動かし難い証拠がある」と反論しています。

もしその証拠というのが中国で裁かれた、そして南京大虐殺館の看板となっている「百人斬り」事件であるとすれば笑止千万です。
「南京大虐殺」のまぼろし」の著者・鈴木明氏が辿り着いた答えに「南京大虐殺」と「百人斬り」のレトリックがあります。
百人斬り事件が「南京大虐殺があったのだから百人斬りがあった」という論法が南京の戦犯法廷で下され、もう一方の東京裁判では「百人斬りがあったのだから南京大虐殺があった」という検察主張となっていて、相互補完を呈してるのです。

河村市長は、南京市で戦後を迎えたお父上が現地で優しくもてなされたことを挙げ、身近な事実から中国の公人に対して南京事件の真実に踏み込まれました。
片や中国では、河村市長の意見全てを紹介せず、南京事件を否定する一説だけを掲げて非難しています。
どちらに真実があり、さらに真実味があるか、一目瞭然のはずです。

私は断固河村市長の意見を支持します!
是非これからも南京事件の真実を追求してください。
私たち日本人が伝統と文化に培われた日本を取り戻すために、日本の将来の子どもたちに誇りある日本を知っていただくために、お父上ら日本のために尽くされた先人の名誉を回復するために、そして新たなる21世紀と言う時代に日本文明が繁栄していくためにも。

敬具

togyo拝
スポンサーサイト

theme : 日記
genre : 日記

「南京大虐殺」と「百人斬り」のレトリック

2012.01.11.05:45

「南京大虐殺」のまぼろし」の著者であり、ジャーナリストの鈴木明氏が辿り着いた答えは「南京大虐殺」と「百人斬り」のレトリックでした。

いわゆる百人斬り事件が「南京大虐殺があったのだから百人斬りがあった」という論法が南京の戦犯法廷でくだされている一方で、東京裁判では「百人斬りがあったのだから南京大虐殺があった」という検察主張となっており、相互に循環する論法であったこと。

つまり、関係資料にあたり、南京大虐殺と百人斬り事件の裁判での証拠能力としての偽証に辿り着いたのです。

書籍「「南京大虐殺」のまぼろし」(後篇)
http://mayuryou1025.blog76.fc2.com/blog-entry-126.html

「百人斬り」の記事を載せた当時の東京日日新聞は今の毎日新聞に引き継がれ、毎日新聞社発行「昭和史全記録」(平成元年発行)では「百人斬り」報道について「この記事は当時、前線勇士の武勇伝として華々しく報道され、戦後は南京大虐殺を象徴するものとして非難された」「ところがこの記事の百人斬りは事実無根だった」と書かれています。

正論コラム(2)中国側の宣伝に乗った「中国の旅」
http://mayuryou1025.blog76.fc2.com/blog-entry-138.html

中国の南京大虐殺記念館では、その東京日日新聞の記事が“虐殺の証拠”として陳列され、さらに向井敏明、野田毅両少尉の等身大パネルが展示されているのです。

正論コラム(1)事実認定は遺族側の実質勝訴だった百人斬り訴訟
http://mayuryou1025.blog76.fc2.com/blog-entry-124.html

「南京大虐殺」と「百人斬り」のレトリックを踏まえ、まさに、南京大虐殺記念館は看板倒れの”とんでも記念館”であり、先の南京法廷も東京裁判も過去の歴史の遺物に過ぎないのです。

theme : 未解決事件・迷宮入り事件
genre :

新春企画「松井石根物語」(結)

2012.01.07.17:03

南京攻略戦後、外国宣教師たちの手により南京市内に安全区が設定され、南京市長馬超瞬は残留市民二十万人に対し国際安全区に移住するよう命じました。
日本軍はこれを尊重し、攻撃一つしませんでした。
このことはラーベ委員長より感謝の書簡が出されていることでも明白である。
南京市民は安全が確保されていたのです。

南京事件に関して、中国政府は三十万以上の虐殺があったと主張しておりますが、当時の安全区において確保されていたのは二十万人です。
後には二十五万人まで増えています。
そこにおいて二十万の虐殺さえとても考えられません。

東京裁判にて証拠とされたマギー牧師の39枚のフイルムには、病院や複数の死体はあっても、虐殺を示すものはありませんでした。
何も映し出されていません。数体の死体の情景もありますが、戦時中に死体があるから虐殺だとの理論はあり得ません。
そのフィルムもマギー師本人が東京裁判に証拠として提出したのではなく、国民党顧問ハロルド・ティンバーリ記者が最初に虐殺として利用しました。

現在も中国は犠牲者数を三十万人と主張しますが、日本でこの数字を信じている人はいません。
三十万人といえば原爆二個分です。
しかも当時の南京の人口は二十万人だったのですから。

東京裁判においてすら捕虜処刑を明言する欧米人は誰もいませんでした。世界の誰も非難していないのです。

ところが、松井石根は南京の暴行事件を完全には否定せず、「興奮した一部若年将兵の間に忌むべき暴行を行ったものがあったらしく」と、一部を認めました。
ただしそれは何処の占領地でも起こる軍規違反の犯罪のことであり、検察が主張する「大虐殺」を認めたのではありません。
それでも松井が認めた少数の「暴行事件」と検察の言う「大虐殺」の区別はよく伝わらず、反証が弱いという印象を与えてしまいました。
判決は弁護側の証拠をほとんど却下し、検察側証拠はほぼ全てを採用し、指揮官の松井に虐殺を止める友好な対策を講じなかった「不作為責任」があるとし、死刑を言い渡しました。
松井は最後まで、自分がナチスに匹敵する「人道に対する罪」を被るとは思っておらず、ただ明治の日本軍を知る古い軍人として、僅かな軍規の弛みも許しがたく、痛恨の一大事と認識していたのです。
だがその潔癖さがかえって誤解を生み、「大虐殺」を認めたかのような誤解を生みました。
松井は生涯を日中友好の為に尽くした人物であり、その礎石となるべく、この罪を背負ったのです。

theme : 歴史小説
genre : 小説・文学

新春企画「松井石根物語」(転)

2012.01.07.14:58

松井石根が東京裁判「南京暴虐事件」にかけられて、出廷した証人は九名、宣誓供述書や陳述書による証言は一七名、その他の文書は十一通でした。
以上合計三十七の証言・文書が、検察が提出した全証拠です。
ところがこれらの証拠は怪しいものばかり、証言は裏付けの無い伝聞が多数です。

数万規模の虐殺があったはずが、裏付けとなる複数の証言が一組もなく、ほとんどの殺戮事件で、常にたった一人の人間だけが、妙に似たような方法で生き残り、証言しています。
しかし、東京裁判では証言の真偽に関する検証は一切行われませんでした。
それは東京裁判には「偽証罪」がなく、まるで中世の魔女狩り裁判だったからです。
検察は冒頭陳述で「組織的であり、計画的な犯行である」と主張しましたが、その証拠は遂に提出できませんでした。
南京で虐殺があったとしても、それはアウシュビッツや広島・長崎とは全く性格が違う、個人的暴発的反抗にとどまるのです。
各国のジャーナリストがいたはずなのに、証拠となる写真一枚なく、検察は物的証拠を一点も提出していませんでした。
裏付けの取れない証言と、作成者のわからない資料、それが証拠の全てとされました。

南京の中国軍の崩壊後、逃げ遅れた何千人の兵が安全区に逃げ込み便衣兵となります。
国際法で禁じられている便衣兵(ゲリラ)として捕まります。
本来はこの便衣兵は安全区の管理者が武装解除させ、戦争が終わるまで置いておくか、捕虜として引渡しの義務があるのであるが、人数や能力からそれができないのみならず、敗残兵をかくまりたい、保護したいとの思いがある。
日本との間にトラブルが起こり、反目が起こり、日本軍に不利な報告をすることとなります。
手榴弾など武器を相当数隠し持っていたし、反攻のうわさで持ちきりであったため、戦闘目的であると解釈されても致し方ありません。
結果敗残兵の掃討に強引さが出て、かなり杜撰な餞別となってしまったと考えられます。
兵と誤認されたケースも出たでしょう。
便衣隊の処刑はおよそ三・四千人であろうと推測されます。
結果、公開処刑とみられたものが「虐殺」の宣伝文句に利用されてしまうのです。

しかしこれはあくまで戦闘行為であり、虐殺には当たりません。
安全区に逃げ込んだ中国軍逃亡兵は数千から万とされます。
彼らが便衣兵となり、その摘発で三・四千名が処罰されたと考えられますが、戦時の法律に違反するものではありません。
中国軍司令官の逃走後の無秩序な同士討ちにより中国軍兵士の死者が出たのも、また戦時のことですので戦闘行為にて中国軍人が多く亡くなったこともあるでしょう。
彼らは捕虜の資格もなければもちろん市民でもありません。
いかなる権 利も有しない不法ゲリラです。日本軍が彼らを虐殺をしたとの指摘にはいっさい当たりません。
捕虜として扱うにはハーグ条約その他で一定の資格があります。
投降し、かつ受け入れ側が捕虜と認め捕虜収容所に連行して初めて捕虜の扱いを受けます。

theme : 自作小説
genre : 小説・文学

新春企画「松井石根物語」(承)

2012.01.07.06:14

南京戦の戦死者慰霊祭で、松井石根は日中の戦死者を共に慰霊しようと提言しましたが、これは実を結びませんでした。
そこで帰国後、中日の戦死者を共に祀る「興亜観音」を建立し、近くに庵を建てて住み、毎朝観音経をあげて菩提を弔い、隠棲生活を続けました。
そんな老いたる退役軍人が「A級戦犯」として逮捕され、東京裁判にかけられたのです。
その罪名は「南京暴虐事件」、俗にいう「南京大虐殺」です。

南京攻略戦は最初から計画された戦いではない、苦戦を強いられていたのです。

方や蒋介石軍は南京包囲を恐れて、首都南京放棄派と抗戦派が拮抗し、ついに抗戦派の唐生智が司令長官として残り、蒋介石は十二月7日に南京を脱出したのです。
南京は攻防戦の目標地となり、市民たちは城内に残り、難民も首都を目差して入り込んできていました。

十二月十日頃から本格的な南京攻防戦が始まります。
十二月12日には激戦の末、日本がほぼ南京城を包囲しました。
その際中国側は南京郊外に火をつけ農家などを燃やし撤退した地域を徹底して破壊しました。
この焦土作戦遂行は、日本軍でなく、中国軍の蛮行です。
 
司令官・唐生智が十二日夕方真っ先に長江を渡って逃げてしまったため、指揮官なき軍は全滅に近い被害を受けました。
逃げる味方兵を城門の上から機関銃で撃つと言う大変な同士討ちが起き、揚子江を筏で逃げる中国兵は途中筏が砕けて溺死します。
逃げ惑う兵が揚子江を渡りきれずに逃げ遅れ幕府山の山麓に吹き溜まりのように集まってしまいます。

捕まえたのは第十三軍の六十五連隊。
しかし一万四千七百七十七人の武装した敗残兵を捕虜とできるわけがありません。
自軍より十倍ほど多い捕虜を扱えるわけがありません。
殺戮すべきを偲びず、十六日十七日の二回にわけ揚子江の中洲に逃がそうと連行する途中、捕虜暴動が起こりました。
暴動を静めるための銃撃はありましたが、明らかに故意のではなく、突発事故です。

これらは虐殺では断じてなく、戦闘行為です。
これを大虐殺の証拠というのであれば、捏造にすぎないことは明らかです。

theme : 自作小説
genre : 小説・文学

プロフィール

南知隊!

Author:南知隊!
~南京の真実を知らせ隊~
略称『南知隊』
『南京大虐殺』と言う歴史歪曲による不当な冤罪を多くの人達にしってもらおう!
そんな想いを持った人々の集合ブログです。

最新記事
月別アーカイブ
カテゴリ
検索フォーム
南知隊ブロの中で検索したい事柄があった場合、↓の窓に語句を入力して「検索」ボタンを押すと、該当の記事が出ます。
通州事件の真実
RSSリンクの表示
リンク
ブロとも申請フォーム

この人とブロともになる

QRコード
QR