〈陳述書 本多勝一氏へ 原告 向井敏明長女エミコ・クーパー〉

2011.12.10.14:38

        陳述書
            原告 向井敏明長女エミコ・クーパー
           
            記
 
  本多勝一氏へ
 
 私が本多氏の名前を耳にし、目にしたのは1972年の初めでした。
 当時まだ軍にいた夫がベトナムより帰米し、「最低3年は在日できる」と大喜びで神奈川県座間にある米軍基地に向かったときです。
私は、日本の中で日本人同士が「百人斬り」のことで論争しているとは夢にも思わなかったから、大きな驚きと激しい痛み、悲しみに続いてどうしようもない怒りと悔しさに潰されました。
 寝耳に水と昔のことわざがありますが、そのときの私にはそんな優しいものではありませんでした。「寝ているところを野球のバットでぶん殴られた・・・」とでもいうほうが近いでしょうか。
 
 戦後一ヶ月もたたない一九四五年九月十日に、私(当時9歳)と4歳の妹千恵子は母を失いました。その後2年半で父を36歳の若さで失いました。
 私たち姉妹は孤児となり、人生、世の中の荒波に放り出されました。幼い妹は、年老いて病身であっても精神面ではまだしっかりしていた祖母に母代わりをしてもらい、私はまだ10台の半ばであったにもかかわらず、何とかして一人で歩かなくてはと、明日の事も見えず考えられないのにがむしゃらに、悲しみ、苦しみ、不安、おそれ、心の痛み総てを押しのけながら歩き始めました。
 それはコンパス(父母)を持たない小さな小船(私)が、荒波の太平洋に浮き沈みしているようなものでした。そういう世の中の荒波にあって、常に私の心を支えてくれたものの第一は、亡き父母達が残してくれた言葉でした。
 自らの死を悟って母は、死の4日前、「目に見えなくても、何時も一緒にいますよ」と言いました。大人になっても「そう信じていたい」と思いました。母が残した書き物には、私が生まれる前からのものもあり、母の人柄がありありと分かります。
 父の言葉は、5年生だった私に、「何も悪い事はしていないからすぐに戻れるだろう。心配するな。おばあちゃんの手助けをして、千恵子をかわいがって、良い子で待っていなさい。」そう言って二人の私服の刑事さんたちと汽車で東京へ向かった。それが、私が最後に父の生きている姿、顔を目にしたときのことでした。
 父の書いたものもわずかですが、父の人柄を忍ぶことができます。その一つに中国で「兵隊達に感謝する、みんなよくやってくれる」云々と、陰でノートに書き残しています。また同じ頃父は、自分の父親が亡くなったことを知り、中国人の食堂の二階をかりて、一人思いっきり泣いたとか。その後父は、中国戦地にいる弟に、どのように父の死を知らせようかと悩んでいる事も書き綴られています。父の人柄の一片一片が父の書いたもののなかから私には伝わってきます。
 
 一見して、本多氏および彼等が書かれた種々のものとは、無関係のようなこのようなことを書きましたのは、すくなくとも過去30年余にわたり、本多氏が数々のもので、私の父を「父」とは全く違って「大きな冷血の化け物」に想像や曲解や他の人々の書いたものと混ぜ合わせて、本多氏の勝手な想像での「大悪人」に作り上げ、世にさも真実であり、「真の父の人柄」であるかのように報道し、現在では日本だけでなく、中国始め世界の多くの人々に信じ込ませ、「レイプ・オブ・ナンキン」を書いたアイリスチャンのような人にも利用されて、アメリカのウェブサイトでは誰でも自由に見る事ができる「資料」の一つになり世の中に残り続けようとしているからです。

 私は短い間ではあっても、父を良く知っていますし、この年になっても良く覚えています。父も母もまだ30台の若さのまま、私の胸の中に生き続け、辛酸の人生を歩んできた私の支えになってくれましたし、今も見守ってくれています。
 父は数々の思い出を作り残してくれました。亡き祖父母達には一番の親孝行でしたし、2人の伯父たちにとっては、思いやりのある優しい兄でした。私には良い父でした。それだけに、父を知る者の心は痛んでやみません。
 こういう父が、何故に見も知らぬ本多氏に死後もムチ打たれ続けなくてはならないのでしょうか。そして、間違った事を信じ込まされた少女に「バカヤロー」と呼ばれ「日本の恥」と言われなくてはならないのでしょうか。父はさぞ無念で,死んでも死に切れないはずです。

 本当の「日本の恥」は、日本人でありながら、自らの国や同国人たちの悪口を真偽をとはず、自らの想像で海外にまで撒き散らすものたちのことでしょう。一体その理由は何なのでしょうか。また、こういうことを平気でし続ける人の人柄や良心、責任感等はどういうものなのでしょう。死者達のみで終わらず、遺族まで平気で何十年も苦しませている事は「残酷」でなくて何といえるでしょうか。

 私は、1972年の始めに日本を訪れて、「3年在日」どころか一年で帰米しました。
 本多氏に作り上げられた父の本当の姿とはまったく別人の「化け物」のために、あんなに喜んだ在日は「悪夢」に変わり、それらより逃れるため1973年早々にアメリカに戻りました。その後20年間、私は日本の土を踏みませんでした。
 その間も次々と止むことのない日本での「百人斬り」に関しての論争は、そのたびに古傷は鮮血を噴出し、私はどこに行ってよいのか、行き場のない痛み、悲しみ怒り無念さに苦しみ、現在も続いています。
 アメリカに戻ったからと言って「百人斬り」の事から逃れた訳ではありませんでした。アイリスチャンの「レイプ・オブ・ナンキン」では、本多氏や鈴木氏のことが出ており、明らかに敵味方の使い分けをしているのが分かります。これは私にとっては、刃物で心臓を刺されるような痛みを感じないではおれませんでした。
 
 現在ではコンピューターを通じて父たちのことが世界中に広がっていると、私の友人知人たちから知らされます。
 本多氏の「南京大虐殺13のウソ」では、「据え物きり」ですか。どこでそのようなことが行われたのでしょうか。いつどこで、父が本多氏の言うような行動が取れたのでしょうか。一人の日本兵に目撃される事もなく返り血一滴のシミもなく。全く不思議な事があるものです。
 私は父が「南京進軍中に負傷したという傷」を見ています。父が終戦後にステテコ姿のときに話してくれた事がありました。

 長い間の事を数枚の紙上で書ききれるわけではありませんが、日本を遠く離れていても、日夜今もって苦悩し、涙している者がいることを忘れないでください。
 そして、過去の「価値のない意地っ張りや面目」などを捨てて、良心に恥ずかしくないよい仕事を始めてください。
 尊い人命のことなど全く頭におかず、良心もない鵜野氏が書いたものと父や野田氏のことを混同したり、比べたりすることも止めていただきたいものです。
 鵜野氏のかかれたことが本当にあったことであり、彼の行動であったのなら、彼のような人こそ、冷血で残酷な人間であり、戦犯として処刑されるべき人でした。私は旧日本軍や南京全体のことの弁護をするわけにはいきませんし、私には出来ないことです。

 今生きていれば90歳を越した父であっても、私の心の中は、わずか35歳の最後に見た父です。懐かしく忍びながら、また時には幼い日の私に戻り、一人大声で泣いたりします。
 何年もの間、日本人の顔は見ませんし、日本語も口にするのは妹との電話くらい、日本語で文章を書く事も思うようにはかどらなくなりました。

 最後のもう一度、「どうか死者をムチ打ち続ける事をやめて、静かに安らかに眠らせてやってください」、そして、「真実」を求め、誠意をもって、「日本を愛する日本人らしい」仕事をしてください。
 昭和は遠く去っていくようです。
                          以上
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