〈「虐殺はなかった!」兵士9人の見た「南京陥落」〉(週刊新潮2007/12/20号)

2013.04.12.18:30

 12月13日、南京陥落から70年を迎えた。いわゆる「大虐殺」があったのかどうか、いまだに論争が喧しいが、中国側はかねがね日本軍が30万人を殺したと主張して、譲る気配なし。言い続けた者勝ちにもなりかねないところで、南京戦に従軍した兵士9人が、70年前の記憶を語った。大半が90代の生き証人が声を揃えたのは「虐殺はなかった!」。

 盛岡市、前橋市、大津市、高知市……。人口30万人前後の都市といえば、全国の県庁所在地がズラリと並ぶ。いわゆる「南京事件」で中国が言うように、日本兵が30万人を虐殺(中国の言い方では“屠殺”)したとすれば、いわば、これら中核都市の住人がまるごと殺戮されるのに匹敵する。

 ならば当然、南京市内のそこかしこで地獄絵が繰り広げられたはずだが、「中国人はあまり見かけませなんだけれども、公園には露店が何軒か出ていて、日本兵相手の商売をしていました。靴修理店、散髪屋などでありました。一軒の印鑑屋で、私は南京入城記念の印鑑を作れと勧められましたので、水牛の角の印鑑を注文しましたが、出来上がりは明日だというので、翌日たった私ひとりだけで取りに行きました」南京城内に入ったときの様子をこう語ったのは、金沢第9師団歩兵第18旅団第36連隊の元伍長で、93歳になる近藤平太夫氏。1937(昭和12)年12月20日前後だったというから、南京が陥落しておよそ1週間後にあたる。

 この発言が飛び出したのは12月6日、東京の九段会館で行なわれた「参戦勇士の語る『南京事件』の真実」という催しである。ほかにも4人が壇上で発言し、書面や録音での参加を含めると9人の元兵士が、70年前に直に目にしたことを語った。その中身は、おいおい紹介するとして、「南京攻略戦から70年の節目を迎えて、世界各国では“南京大虐殺”の非道を宣伝する映画が次々と製作されています。それに対して、一番効果的に反対意見を知ってもらう方法は、実際に南京攻略戦に参戦していた将兵の方に、当時の体験や見聞きしたことをお話しいただくことではないか、と考えたのです」と、主催した「南京事件の真実を検証する会」事務局長で拓殖大学教授の藤岡信勝氏は趣旨を説明し、こう付け足した。「みなさん90代の方ばかりになり、年齢的にも“もう一度集まりましょう”とできるかどうか」

 ここで、当時のいきさつをおさらいしておこう。日中が泥沼の戦争に突入したのは37年7月7日、盧溝橋で響いた銃声がきっかけだった。日本軍は宣戦布告しないまま上海を攻撃して占領すると、退却する中国軍を追って南京へなだれ込む。数日の激戦ののち、12月13日に防壁に囲まれた南京城内に突入し、占領するのだが、その前後約6週間に、日本の中支那方面軍に所属する主に4個師団3個連隊の将兵が、大量の捕虜や投降兵を処刑し、一般市民にも強姦や殺戮を繰り返した、とされるのが、いわゆる「南京大虐殺」である。

 周知の通り、東京裁判でも、中支那方面軍司令官の松井石根大将が虐殺の責任を問われてA級戦犯にされ、絞首刑になっている。虐殺の規模も、34万人という中国(国民党)の主張は容れられなかったものの、20万人以上と認定された。また南京で聞かれた軍事法廷でも、BC級戦犯として、南京に突入した熊本第6師団長の谷寿夫中将、それに下級将校3人が処刑されている。

 ここはひとつ、9人の元兵士の話を基に、その6週間前後の南京の様子を再現してみよう。
 まずは、熊本第6師団歩兵第11旅団歩兵第13連隊の上等兵だった、永田尚武氏(92)の証言。当日は文書で寄せられた。

銃声も聞こえない

「12月5日から10日、雨花台(南京城の南)までの道のりは楽なものでした。大きな道を各隊とも、ワイワイ言いながら競争して進みました。敵前の戦闘もなく、中国住民ともほとんど会いませんでした。ただ、食料は現地調達で苦労しました。徴発でした。しかし住民は逃げていませんでしたので、トラブルはありませんでした。雨花台からは激戦で苦労しました。我々第3大隊は最左翼を進み、敵の機関銃をまともに受けました」

 同じ連隊の第1大隊に所属する伍長だった古沢智氏(91)も、やはり文書でこう証言している。
「雨花台と河の間にあります雨花台街はまったくの廃墟で、清野作戦(国民党軍による焦土作戦)の影響で何もありませんでした。12日深夜から13日早朝にかけて、敵は城門を閉めて逃亡したのでありますが、城門内で日本兵の攻撃を食い止める使命を帯びた中国兵は取り残され、哀れにも我々の銃火に殺されました」

 少なくとも、この2人が進んだ周辺は、住人はすでに逃亡してもぬけの殼だったらしい。また、戦闘によって少なからぬ犠牲者が出たことは認めている。

 金沢第9師団歩兵第18旅団司令部の元軍曹、斎藤敏胤氏(91)は、光華門に突入した際の激戦について直接こう語った。「(12日の)午後5時ごろ、連隊長が突入を命じましたが、門が二重になっておりますのを軍隊は知りませんでした。突入はしたものの中で閉じ込められ、城壁をよじ登った一部の隊は日章旗を掲げて万歳を三唱しました。そこを敵は反撃に出まして、閉じ込めた者を叩く、城壁に上がった者を叩くということで、激戦状態に陥り、わが軍も手榴弾で反撃しましたが、負傷者が続出したのでございます」

 大隊長の“名誉の戦死”を経て13目早朝に突入、夕刻にようやく占領に至ったという。入城してみると、「南京城に入ったのは12月14日、たしか午前11時くらいだったと思います」と、前出の古沢氏が、今度は音声で証言する。
「中華門から入りましたが、門は四重になっていて、土嚢が積まれていたのですが先発隊が取り除いてくれていました。大きな通りを北上して進んでいきました。城内はガランとして、人影はありませんでした」
 どうやら、市民は難民区に集まっていたのだ。そこは一般市民を保護するための区域で、同時に多くの敗残兵や、平服に身を隠した便衣兵が潜んでいるといわれた。
 日本軍は敗残兵を掃討する名目で、難民区の市民を多数殺した、というのが中国側の主張だが、「12月20日前後、連隊長が中佐を連れられて南京城内を見学され、難民区の前に行きまして、小姓に“入れろ”と言ったのですが、“許可証のない方は入れません”と言われ、そのままお帰りになりました」と、先に紹介した斎藤氏は証言し、続ける。「20日ごろ、150メートルくらいの紫金山に入りました。そこから南京を見ますと、銃声も聞こえない、火災も起きていない、本当に平和な街でございました」
 もっとも、敗残兵の掃討が行なわれなかった、というわけではない。金沢第9師団歩兵第6旅団歩兵第7連隊の伍長だった喜多留治氏(89)が言うには、「難民区の掃討は14、15、16日の3日間でございますが、7項目にわたって厳重な注意厳命がございまして、外国権益の留意、住民への配慮、失火は厳重に注意する、将校の指揮する掃討でなければ認めない……」

 つまり、非常に秩序だって行なわれていたと主張するのだ。そして結ぶ。「滞在期間中、一発の銃声もなかった。聞きもせず、撃ちもしませんでした」

逃がしてやればええ

 最後に、南京に45日間滞在した稲垣清氏の話を。京都第16師団幅重兵第16連隊に所属した元陸軍獣医少尉で、明治43年生まれの97歳である。
「陥落の3日後に中山門から入城したとき8ミリで撮影したのですが、住民はひとりも見当たりません。駐屯してから、城内の野戦倉庫と揚子江方面の下関(シャーカン)の野戦倉庫の間を、10キロくらいありますが5往復しております。その際、私どもつぶさに見たのでありますが、中国兵の死体はひとりも見ておりません。それから、南京大虐殺記念館で発行したアルバムに収録されている地図に、(虐殺者数が)ここで何万、ここで何万と書かれてございます。その場所に私は、軍に用意されたBMWのサイドカーに乗って行っておりますが、まるきり綺麗なもんでございまして、死体があった痕跡も、ひとつも見ておりません」

 やはり、水牛の角製の印鑑を作ったという稲垣氏に、改めて話を聞くと、
「私はあの会で、中島今朝吾師団長のことも、一言申し上げたかった」
 と訴える。ちなみに、稲垣氏の師団長だった中島とは<サディズム的性癖のある将軍、南京虐殺の中心人物と噂されていた>(泰郁彦著『南京事件』増補版)。

「師団長の日記は5冊、目を通しましたが、捕虜を取る方針でなかったとか、見つけたら即刻片づけること云々とありますけれども、全部反対に解釈されとるように思えますわ。私は、捕虜を取る方針でない、ゆうんは、殺せいうことやなくて逃がせゆうことだったんだと、あの頃から思っとりました。捕虜収容所も実際にあり、私も監視を命じられもしましたが、夜になると何人か逃げ出したりもしとりましたわ。けれども私らは(上層部も)逃げたいなら逃がしてやればええ、という考えでそうしとったんだと思ってましたな」

 政治ジャーナリストの花岡信昭氏の感想は、「参戦した方々の証言によって、30万という数字が中国政府のプロパガンダであることが明らかになりました。中でも画期的だったのは、南京入城の際に人っ子ひとりいなかった、という証言です。南京には難民区があり、そこ以外には人がいなかったのです。また、日本軍の入城後数日で露店が建ち並んだという話です。そんな状況下で虐殺が起こりうるものでしょうか」

 一方、防衛研究所客員研究員の原剛氏は、「証言者が属していた部隊以外にも部隊はあったので、これをもって“虐殺はなかった”と言うのは無理がある。一部をもって全体を語ってしまっています」 と冷静に見るが、捕虜を中心に2万人程度の虐殺はあっただろう、と主張したうえでこう言う。「中国側が主張する30万人はあり得ません。当時の南京市民は20万人程度で、30万人も虐殺されれば、市民は1人もいなくなっていたはずです。今回、証言者たちが語ったことは事実だと思いますし、彼らが自ら知る限りで事実を証言したという点に、意義があったと思います」

 証言者がいなくなれば、中国のプロパガンダだけが独り歩きしかねないのだ。



スポンサーサイト

theme : 憂国ニュース
genre : ニュース

comment

Secret

プロフィール

南知隊!

Author:南知隊!
~南京の真実を知らせ隊~
略称『南知隊』
『南京大虐殺』と言う歴史歪曲による不当な冤罪を多くの人達にしってもらおう!
そんな想いを持った人々の集合ブログです。

最新記事
月別アーカイブ
カテゴリ
検索フォーム
南知隊ブロの中で検索したい事柄があった場合、↓の窓に語句を入力して「検索」ボタンを押すと、該当の記事が出ます。
通州事件の真実
RSSリンクの表示
リンク
ブロとも申請フォーム

この人とブロともになる

QRコード
QR