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GHQ焚書図書開封(13)「征野千里」10:山下曹長一番乗り

2013.10.10.18:14

戦場手記『征野千里』中野部隊上等兵谷口勝著 新潮社昭和13年12月発行より

山下曹長一番乗り

 やがて保定の大城壁が遥か彼方に見えて来た。「ああ」とみな目を瞠ってこれを眺めた。ぐんぐん進むと鉄道線路があった。「ここから大城壁へ一気に突撃」という命令だ。この土手下に伏せると野砲や迫撃砲が四、五間後にドーンドーンと落ちて来た。やがて鉄道線路を装甲車が走って来て鉄道隊の戦友達が手を振りながら煙草などを投げて行った。疲れ切った兵たちがこれを拾ってヤンヤと騒いだ。――突撃に移ったらもう生死のほどはわからない。これが今生の喫いおさめとあったら、煙は腸までしみょ――という思いだった。
 煙草に火をつけて二喫三喫ひすると装甲列車が通り過ぎてしまった。とたんに線路から飛出して城壁へと突進して行った。このドタン場になっても煙草は丁寧に火を消して短くなったのを内ポケットにしまう。

 第一線と第二線と○○メートルの間隔で進んで行った。どんどん進むと城壁二、三間前にクリークがあって、飛び込むと水は胸までひたした。それを這い上がったが、どうしても足場がなくて城壁に上れない。友軍の重砲が城壁目がけて撃つのが炸裂して、破片が四方に呻って飛んだ。砲兵は私たちがまだここまで取りついたとは知らないらしい。ラッパの音が聞えて来る。ラッパで部隊の居所を知らせようとしているらしい。石原上等兵が吹いているのだろうか、とチラッと思った。ラッパが吹き鳴らされてもまだ友軍の重砲はドーンと身近に飛んできた。

 城壁がどうしても上れないので私たちは広い道路を走って正門へと向った。この道路の上にも重砲が次々と落下している。城壁が三角になった隅のところへ来ると城壁に喰ッついて軍用自動車車庫があった。戦友同士でお互いに肩に乗ってこの車庫の屋根に登った。屋根の上から城壁の上までは何の足場もなかった。山下曹長が「丸太をもって来い」と叫んだ。車庫の向うに材木屋のような家があって大きな丸木が一杯積んであった。屋根から飛び降りてこの丸木を担いだ。山下曹長と有土上等兵がそれを屋根から城壁の上へ立てかけると、私たちは屋根に登って下から押えた。みんなが焦って、丸木を登って行こうとする。誰でもが一番乗りをしたかった。
「これじゃ駄目だ」誰か叫ぶと「そうだ、山下曹長殿一番乗りをして下さい」と期せずしてみんなが叫んだ。「オオ」といって山下曹長がこの丸木をよじ登った。つづいて有土上等兵がよじ登った。下から木を押えてこれを仰いでいると、なにか涙が流れて来る気持だった。
「アア、俺も登りたい」と思わずそれをつぶやく。城壁の上に登って山下曹長がしきりと旗を振った。これを見てとったか友軍の重砲は射撃をやめた。山下曹長と有土上等兵は城壁に旗を立てると二人きりで城壁の中へ降りて行った。やがて中から二人が正門を開いた。私たちは車庫の屋根を飛び降りて、正門に殺到した。空は澄み切っていた。足の痛みも体の疲労も全部忘れてしまった。小林伍長も駆け込んで来た。あのおとなしい小林伍長が私の肩を掴んで「男と生れた、男と生れた!」と絶叫して私の体を振り回した。
「『母さん』が男と生れたらこれなんじゃこれなんじゃ」といいながら石原上等兵が走って来た。三人は一緒に保定の街の中へ走って行った。もう石原上等兵と小林伍長の喧嘩は仲直りになっていた。

保定城外の民家だった。少し萎れてはいたが、支那兵のちぎり残した葡萄が沢山蔓に残っていた。永定河を渡ってから十日間、来る日も来る日も野菜をかじっては泥と弾の中を進み続けて来た私たちには、萎れていてもその小さな青い円味の果物が、世にも珍しい貴いもののようにさえ思われるのだった。
 半透明な粒を歯に噛むとプツ、とつぶれて、そのしみ渡る甘味は皮も種も吐き捨てるのが惜しかった。城内の住民たちは湯を持って来たり、粟粥を御馳走したりして盛んに私たちを歓迎する。石原上等兵が何処かから大きなカメを探して来た。これに湯を沸かして初めての陣中風呂に、まずまずと児玉少尉や荒木准尉をお入れ申した。・・・・

 児玉少尉や荒木准尉たちが「おい、あんまり汚くしていては、日本軍の不面目だぞ、少しは綺麗にしろよ。」と注意して廻られた。戦線に来て日が浅かったので、そんな余裕があるのだった。・・・
 晩は豚の御馳走に、舌鼓をうった。寝ようとすると部隊全部にはじめて千人力飴が配布された。小さな袋に入っていて朝鮮飴のように柔らかくて甘い。これを噛んで小林伍長と石原上等兵と三人で抱き合って寝ていると、久し振りで湯を浴びた快さも手伝って何か楽しさがゾクゾクと身内にこみあげて来た。
 昨日までやっていたあの激しい戦争なぞはすっかり忘れてしまっている。いや、たったいま、ヒュルヒュルヒュルと空気を裂く弾の音がすれば、それと同時に何が起らないとも知れない。しかしそんなことは一切忘れてしまっていた。戦場というものは飛びだすことも早いが忘れることも早い。一貫した想念というものが全部無くなって、ただ瞬間瞬間の想念の外にはなにも考えない――これが戦場だった。
 従って兵隊はみんな子供のように、その場その場の感情で動いている。十日間の洗礼で明日の命を考える馬鹿ものなどは一人もいなくなってしまった。この瞬間瞬間の行動が連続して、東洋の一転期を画するような大きな仕事が出来て行くのだろうか――と不思議な気もするが、そんな考えも一寸目の前を閃いて行ったかと思うと、次の瞬間には、もう別の途方もないことを思ったりしている。

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