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「南京虐殺」はホロコーストではない D.M.ケネディ(2)上海、そして南京へ

2014.08.31.18:03

上海、そして南京へ
-1937年7月、北京郊外の盧溝橋付近で起こった中国軍と日本軍との小規模な衝突が、日中間の本格的戦争に拡大した。日本側は中国と公然と戦うことは、救いようのないほど無力と見なしていた中国政権を懲らしめる絶好の機会と考えていたようだ。

イギリスのある外交官が見た当時の日本の中国観は、次の様なものだった。-「中国は文明国ではなく、定形を欠く民族集団に過ぎない。その政府は秩序の維持が不可能なほど無力である。共産主義の嵐が荒れ狂い、国家は競い合う軍閥の率いる軍隊や共産軍、そして盗賊の群れによる略奪の餌食となっている」

一方、国府軍の将軍たちや中国共産主義者たちの圧力下にあった蒋介石は、日本の侵略者たちと対決して決着をつける機会を待ち兼ねていた。しかし蒋総統は、北京周辺で日本軍の主力と戦うよりも1932年のシナリオを再現させることによって戦闘の舞台を中国南部に移すことをもくろんだのである。蒋は、上海の約3万人の在留邦人に脅威を与えることによって、北支の日本軍を、蒋介石の主たる政治基盤であり最も安全と考えられていた揚子江下流の地域におびき出せると読んだのである。

この囮作戦は成功した。日本軍部は目を南に向け、8月23日、当時の日本軍司令官、松井石根大将は上海攻撃を開始した。松井大将は中国側の激烈ながら散発的な抵抗(当時蒋の将軍たちは、臆病だという理由で数百名の国府軍兵士を処刑している)に遭いつつ、ジグザグのコースをとりながら上海に向かって前進した。

兵士の3割死傷者を出した後の11月上旬、ついに上海を占領した。蒋にとってこれは深刻な軍事的敗北であったと同時に、その後直ぐに起こることになった、それ以上に規模の大きい惨劇の序曲だったのである。日本軍は猛烈な絨毯爆撃の後、揚子江流域に向かい、国府軍の首都南京へと進撃を続けたのだった。


蒋介石が企んだ「1932年のシナリオ」とは「第一次上海事変」を表します。
第一次上海事変は、昭和7年(1932)1月~3月に中国の上海共同租界周辺で起きた日華両軍の衝突です。(Wiki. 参照)
「1937年-の-中国軍と日本軍との-衝突」とは「第二次上海事変」を表します。
第二次上海事変は、昭和12年(1937)8月13日から始まる中華民国軍の上海への進駐とそれに続く日本軍との交戦です。(Wiki. 参照)
第一次上海事変の後の5月5日日本と中華民国との間で「上海停戦協定」が締結されていたのにです。

反日日本人・唯一の論拠  上海事変から南京事変 / 武田邦彦 (中部大学)(平成25年6月29日)
http://takedanet.com/2013/06/post_fe1a.html
蒋介石率いる中国軍は、第一次上海事変で非武装の条約が結ばれた上海近郊に、ドイツ軍人の指導でトーチカ群(ゼークトライン)を築城。一方で、中国第36師団など4師団の軍事訓練、チェコ製の軽機関銃をそろえた(条約違反だが、反日日本人は語らず)。4千人の在上海日本軍(呉、佐世保、出雲)に対し30万人の中国軍人を準備した上で日本軍を挑発して引き起こされたのが、第二次上海事変だ。戦闘開始直後、中国軍機は日本の民間人を狙って爆撃し、パレスホテルなどで730名即死、大世界娯楽センターでは避難した婦女子を中心として1000名が死亡した。

この戦いは日本軍にも旅順攻撃以来の犠牲者を出し、国際的にはニューヨークタイムズやヘラルドトリビューンが「中国軍が上海地域で戦闘を無理強いしてきたのは疑う余地は無い」と報じるなど反日日本人の著述と全く違うのもまさに「反日日本人」である。


これでは、日本国民の命に代えて、中華民国の首都・南京攻略に向かわざるえないでしょう。
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