アメリカ人の「南京虐殺の目撃証人」は一人もいなかった(3)南京国際委員会2ヶ月間の記録『南京安全区档案』

2014.09.11.06:45

アメリカ人の「南京虐殺の目撃証人」は一人もいなかった
松 村 俊 夫


「南京国際委員会」と「安全区」
1937年11月中旪頃から、アメリカの宣教師を含む南京大学のスマイス、ベイツが中心になり、安全区を作って非戦闘員を収容しようという計画が検討された。その実現を目指して結成されたのが国際委員会である。そしてドイツ人ラーベが委員長に選ばれた。

そのいきさつを書いている1938年1月24日のミルズの妻への手紙によると次のようにある。
~~~~~
安全区に関しては、私たちは上海の神父ジャキノゾーンの安全区の成功から、その 方法についての啓示を受けた。彼の名前がそこにはっきりとついているので、私はそこを彼の区と呼んでいた。私たちの最初の仕事は、この地域についてのアイデアを 那側と外国人の友人たちに明確に伝えることだった。そして支那側の支持があることを明らかにするように交渉することそして最後は日本側との話し合いだった(245頁)

ジャキノ神父は、上海周辺の日支両軍の衝突から支那人民衆の生命財産を守るために、フランス租界に近い住民の密集区域を中立区として軍隊の侵入を防いだ。ところが南京の国際委員会も、同じように民衆を危険から守ろうとしたのだったが、その場所の選定が上海とは違っていた。南京の安全区は、住民や商店が多い南京市の南部一帯ではなく、南京中央部分の住民は尐なく、最もアメリカなどの外国資本と権益が集まっていた地区に定められた。その意図は、それらの権益を守ろうとする気持もあったようである。

この東西約1.6キロ、南北約3.2キロの細長い六角形の地域の安全区へ、南京陥落の約1週間前から人々が流れ込んだ。避難場所が無くて南京に残留していた最も貧困な約20万の難民は、僅かの家財道具と出来るだけ多くの食料品を持って安全区の外国人の施設や公共建物に設けられた20ヶ所のキャンプやその他の建物に充満した。そして安全区以外の南京城内には、難民は殆どいなくなってしまった。従って南京も地域の選定に若干問題はあったが、安全地帯としては充分機能していたのである。

さて、国際委員会は安全区を攻撃しないように日本軍に要請したのに対して、日本軍は次のような方針でのぞんだ。
12月16日に国際委員会を訪れてきた岡崎勝男総領事は、我々に対して法律的に認めることは出来ないが、承認したような取扱いをするだろうと述べた。(第35号文書)

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第○○号文書とは、国際委員会発行文書が1939年徐淑希編の『南京安全区档案』(Documents of the Nanking Safety Zone)にまとめられているなかの文書番号。


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・『南京安全区档案』(Documents of the Nanking Safety Zone)
南京戦の翌々年の1939年(1年半後)に、上海のイギリス系出版社、Kelly & Walsh社から出版された。編集者は、国民党政府の外交部顧問であった燕京大学教授の徐淑希。重慶政府の外交部の委員会の監修となっている。安全区国際委員会の文書、主として日本軍当局、日米大使館担当者に、抗議、要求、報告を提出した文書からなるが、国際委員会の約2カ月間にわたる活動記録とみることができる。その中の日本軍暴行記録は、中国人が言って来たものを、その事実を確かめずに、そのまま載せたものが大半で、証言者、目撃者が記述されているものは極めて尐ない。しかしながら、日本軍が南京に入城してから、外国人が、南京の現場にいて、ほぼその時点で発行した文書だから、南京事件の実態を知る為の貴重な「一次資料」である。

日本語訳としては、洞富雄氏による『日中戦争史資料9 南京事件II』(河出書房新社)があるが、冨澤繁信氏により、より正確な訳がなされ、平成16年『「南京安全地帯の記録」完訳と研究』(展転社)として出版された。
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