アメリカ人の「南京虐殺の目撃証人」は一人もいなかった(6)A.チャンが記した12月12日の中国軍の逃走惨事

2014.09.12.22:47

アメリカ人の「南京虐殺の目撃証人」は一人もいなかった
松 村 俊 夫

スマイスの家族への手紙とアイリス・チャン
スマイスは、国際委員会の秘書(事務総長)として、日本軍や日・米両大使館への文書発行の責任者の役割を果たした主要人物だった。

彼は南京陥落の13日の朝6時頃から8時過ぎまで単独で安全区の中や更に南の方面を巡回したが、人々の混乱は全く無かったので、12月20日付の家族への手紙で、次のように書いている。

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(12月13日、月曜朝)寧海路に戻る途中の我々の安全区を示す旗の位置が間違っていることを人々に告げて直させた。金陵女子文理学院の近くで、道路に脱ぎ捨てられた軍服があったので、警官らに言ってそれを安全区の外に捨てさせた。帰宅したのは8時15分にもなっていた! 仲間は朝食を済ませていたが、私はそれから食事した。彼等は外がとても平和だったことを喜んだのである。(255頁)
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日本軍の攻撃は13日早朝まで続いていたが、この文章によって、城壁が占領され退却して行った中国防衛軍がいなくなったあとの安全区はまことに静かになっていたことがわかるであろう

ところが、この時のスマイスは、静かになる前に中国兵の脱出路となった中山路から挹江門、下関、揚子江に至る地域で起きた惨劇を詳しく知らなかった。しかし読者は、12月12日午後から夜にかけて、日本軍が現れる前の南京城内外で無数の中国兵が射殺され、焼死、溺死した様子を知っておかなくてはならない。アイリス・チャンの『レイプ・オブ・南京』さえも無視できなかったその実情を、同書から引用する。(ペンギンブック76~77頁より抜粋)

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当然のことだが、退却命令は支那軍を大混乱に陥れた。将校の中には、市中をめくら滅法走り回り、行きかう者誰にでも出て行くよう言う者がいた。言われた兵士は逃げた。誰にも、自分の部隊にも言わない将校もいた。代わりに、彼等は自分だけ助けたのである。彼等の兵士は日本軍と戦い続けた。他の軍服姿の部隊が逃げるのを見て集団脱走と考え、それを止めようと逃走する同輩を何百人も機関銃で倒した。急いで混乱しながら町を抜け出す騒ぎの中で、?なくとも1台の戦車が邪魔になる中国兵を数知れず下敷きにし、手榴弾で爆破されてやっと止まったのだった。

こんな悲劇の中に、喜劇的瞬間もあった。兵士たちは、市民に紛れ込んで捕まるのを逃れようと必死の余り、商店に押し入って平服を盗み、外で軍服を脱いだ。間もなく町中は半裸の兵隊たちだけでなく半裸の警官でも充満した。彼等は兵士と間違えられないよう、制服を手放したのである。下着だけを身に付けたシルク・ハットをかぶってうろうろする男もいた。多分裕福な政府高官の家から盗んだのだろう。退却の初期段階、まだ秩序らしきものが残っていた間、支那軍全員が軍服を切り裂き、平服に着替え、しかもなお隊列組んで行進することを同時に行っていた。だが退却が総崩れになると、平服の奪い合いは深刻化した。兵士たちが歩行者に飛び掛って着物を奪う光景も見られた。

日本軍に遭遇することなく安全に町から出る方法が一つだけあり、それは揚子江の北港を通じてで、そこにはジャンクの一群が早いとこ辿り着ける人々を待っていた。港へ着くには兵士たちは先ず中山路の大動脈を上り、水門と呼ばれる町の北西の門(挹江門)をくぐって、初めて下関郊外の北港に入ることが出来るのだ。夜が更けるにつれて、兵士たちは自分等がわたることに焦点を絞り、戦車ゃ装備は放棄した。船は少なくなると、様相は凶暴性を帯びた。ついには数万人が2、3隻の船を争って、自分が乗ろうと戦い、あるいは空砲を放って他人を除けようとした。船員たちは怖がってジャンクやサンパンの船縁にすがりつく兵士の指に斧を振り下ろして押し寄せる暴徒を追い払おうとした。

その夜、川を渡ろうとして数知れぬ人々が亡くなった。門を潜ることも出来ない人々も多かった。その夜、中山路で火事が発生し、炎は弾薬の山を舐め尽くし、家々と車両を飲み込んだ。交通に巻き込まれた馬が狼狽して逆立ちとなり、暴徒の混乱を増幅した。恐れおののく兵士たちは前方へと波を打ち、その勢いで数百人を炎へ押しやり、さらに数百人をトンネルへ追い込んだが、その多くはそこで他人に踏みつぶされたのだった。門が閉じられ、大火災がすぐそこに迫り、暴徒から抜け出せた兵士たちは壁を登って越えよう、と殺到した。数百人が洋服を裂いて紐にし、ベルトやゲートルとなって縄梯子を作った。1人、また1人、彼等は胸壁をよじ登り、ライフルや機関銃を欄干から落とした。転がり落ちて死んだ者が多かった。
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アイリス・チャンは、このように支那軍の混乱振りを非常に詳しく書いているので、読者は南京が陥落してから発見されたこの一帯の多数の死体は、決して日本軍によって虐殺された人々ではなく、統制を失った支那軍が自ら招いた悲劇によることがわかるであろう。これを読めば南京陥落後に日本軍に焼かれたと称して鼓楼病院を訪れた住民の被害者の真実も明かされていることになる。更にこの混乱のとき、群集の中に一般住民は1人もいなかったことも、この文章で明かされているので、その点も充分心に留めておいて頂きたい。

このようにスマイスの手紙とアイリス・チャンによって、12月12日夜から13日朝にかけての南京内外の様子がはっきりしたのである。
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