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アメリカ人の「南京虐殺の目撃証人」は一人もいなかった(10)14日の日本軍司令官への感謝状

2014.09.12.23:46

アメリカ人の「南京虐殺の目撃証人」は一人もいなかった
松 村 俊 夫


ベイツは、「13日夜から14日にかけて度重なる殺人などが、歩き廻っていた外国人によって観察された」と書いているが、いったいどの外国人が観察したと言うのか。全くの悪質なプロパガンダにすぎない。

それを証しているもう1人のアメリカ人の手紙がある。スマイスと行動を共にしていたフォースターの妻への12月13日の手紙には、

~~~~~
南京は陥落した。私たちは皆無事で、怪我人や窮乏している人々の世話で忙しい。 私達は国際委員会を組織した。心配しないように。(118頁)
~~~~~

としかないが、15日の手紙のなかに、14日の巡回中の記事がある。

~~~~~
昨日は忙しかった。我々3人の外国人と中国人通訳は、国際安全区と赤十字委員会 について知らせようとして、日本軍の最高級将校を探していた。彼はセントポール教会の近くのホテルにいたので、私達はその近くの様子を車で見て廻った。教会は無傷 だったが、何枚かの窓は破れ、塔の下の扉も同様だった。1発の砲弾が正面の門に落 ちて、建物に損害があった。私は中に入らなかったが、幸いにも焼失は免れていた。 (118頁)
~~~~~


ここにも見るが如く、やはり安全区の内外共に日本軍によって追い回され、残虐行為を受けている一般民衆の姿などはない。

~~~~~
安全区は理想的ではなかったが、間違いなく無数の生命を救った。最も激しい砲爆 撃を受けたのは市の南部だった。しかし昨日私達が路上で巡回中に見た死体は25以下 だった。安全区の人口は土、日、月曜(12月11、12、13日)に激増し、尐なくとも10万人はいるだろう。(119頁)
~~~~~

このときフォースターは、安全区の人口を10万と見積もっているが、実際には約20万人の人々が集まっていたことは、多くの記録に残っている。


ここで我々はこの日のフォースターが巡回中に見た死体は25以下だったとの記事に注目しなくてはならない。この僅かな人数さえも入城後の日本軍に殺されたのだろうかと問われたら、その答は「ノー」である。

実はスマイスが12月13日にベイツと共に街へ出て、まだ日本兵に出会う前のことである。彼は早くも死体を見ている。スマイスの12月20日付家族への手紙で次のように書いている。

~~~~~
(12月13日、月曜日、朝)我々は上海路を南下していったが日本軍は見なかった。神学院の近くで、約20人の市民の死体があった。あとから聞いたところでは、彼等は走ったために日本軍に殺されたということである。それはこの日の怖ろしい物語だった。(256頁)
~~~~~

スマイスはこのとき迄に安全区内で全く銃声を聞いたとどこにも書いてない。またアメリカ人のすべての記録に、13日になって銃声を聞いたとの記述はない。それなのに、何故スマイスはこのように信じてしまったのだろうか。先に示したベイツのメモを思い出すならば、スマイスの「あとから聞いたところでは」の文章からすると、ベイツが彼等の宿舎で「入城直後から日本軍が住民を殺している」との噂を流していたことが想像される。ともかく「恐ろしい殺害」をスマイス自身実際には見ていないのである。

この死体についてマギーの手紙も読んでみよう。12月12日の妻に書かれた手紙である。この頃のマギーは、前線から運ばれてきた負傷者を病院へ運ぶべく市内を動き廻っていた。マギーは次のように綴っている。

~~~~~
そして、昨日(12月11日土曜日)、私は鼓楼病院の救急車でキャピトル劇場の忚急手当室へ何人かの負傷兵を連れて行きました。私の到着直前に、大きな砲弾が道に落ちて11人が死亡しました。福昌飯店の前のキャピトル劇場の向かい側で忽ち2台の自動車が燃えました。私と負傷兵は日本の爆撃機から逃れたのですが、すぐ近くの対空砲火が激しく射撃していました。私は、できるだけ早くその場を離れて病院に戻りました。間もなく、何人かの人がやってきて、沢山の難民が安全区の内側で負傷していると告げました。私達は、今度は救急車とフォードで裏通りを通っていきました。大学内の中学校を過ぎて漢中路へ着く前に、沢山の死体が横たわっているのを見たのです。1軒の家が砲弾に直撃され、20人近い人々が死亡しました。7、8名が道に投げ出されていました。顔面に大きな穴があいた33歳の息子の死体であり、傍らで可哀想な老夫婦が悲嘆にくれていました。彼等はただ悲しむだけでした。沢山の人々が物珍しそうに周りに立っていたので、直ちに立ち去り身を隠すように言ってやりました。支那の群集はこのようなことに誠に無知です。いつ他の砲弾が飛んでくるか危険なのです。(168頁)
~~~~~


まだ砲撃が続いていた11日にマギーが遭遇した「20人近い人々」の死体のあったあたりが、13日にスマイスが20人の死体を見たところだった。スマイスが日本軍と出会ったのは、そこから更に南の新街口である。

このようにスマイス、フォースター、マギーの3者の記録を比べて見ると、南京入城直後から日本軍による虐殺が始まったというベイツ説の嘘がはっきりしてくる。

尚、このような安全区への着弾は皆無でなかったことは間違いない。しかしそれは陥落前の戦闘時の「それ弾」で極く僅かだったことが、12月14日の国際委員会から日本軍司令官に出された手紙の冒頭の言葉でわかることを明らかにしておきたい。

=====
1937年12月14日
司令官殿
私共は、貴軍砲兵が安全区を救った立派な行為に感謝し、中国市民と安全区を世話 する将来の計画のためにご連絡します。(”Documents of the Nanking Safety Zone第1号文書)
=====


http://hassin.org/01/wp-content/uploads/NO-AMERICAN-J.pdf
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