アメリカ人の「南京虐殺の目撃証人」は一人もいなかった(14)ベイツの嘘は戦後も続く

2014.09.15.17:24

アメリカ人の「南京虐殺の目撃証人」は一人もいなかった
松 村 俊 夫


ベイツの嘘は戦後も続く
さてベイツのメモには、陥落後2日間に日本軍の暴行による無数の民間人犠牲者が出たようにあったが、-紹介したように、スマイス、フォースター、マギー、ヴォートリンのこの2日間に関する記録によって、ベイツを除く他のアメリカ人はそのようなことを全く見ていなかったことが明かになった。

そこで更にその後の南京の模様を含めて、以下に二つの文書を紹介しよう。

その一つはベイツが1947年になって南京で国民政府が開いた軍事法廷に提出した意見書である。

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国際安全区委員会のメンバーの報告と、国際委員会が資金を出して紅卍字会が行った埋葬記録によって、控え目な不完全ながら市民の男女と子供の死 ─ 最初の数週間の間に日本軍による被害 ─ は1 万2千、軍服を着ていても非武装の男3万5千であ ると確信する。これらの殺人のうち、90%以上が最初の10日間、そしてその大部分 が最初の3日間に行われた。これらより多くの殺人があったこ ことは確実であるが、 それらは私が知見できる外で行われたので、数字を見積もることは出来ない。
ベイツ 南京 1947年2月6日
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上記ベイツの主張によれば、1937年12月13日から15日の間に約3万人の敗残兵や一般人が殺されたことになる。

ところがアメリカ人3人の記録が証明するように、これは全く事実ではなかったのである。

そこでもう一つ、妻に書いたミルズの1月24日の手紙を紹介しよう。

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勿論私達はもっと以前に安全区の役割は終わるだろうと予測していた。しかし安全区は占領されるより前よりあとの方が有用だったことが証明された。戦の最中には、特に市の南部や東南部と郊外に住む人々の避難所となって彼等を保護した。そこでは最も激しい戦いがあった。しかし主要な安全区の有用性は、私はあなたに12月初めの頃に人々の群が安全区に入って来たときや、今の上海路と寧海路の様子を見せることが出来たらな、と思う。この2ヶ所は今や南京の繁華街になっている。以前は太平路や中山路やold Fund Dung Giaiだったがそれらの通り
は広範囲に焼かれており、その代わりに以前はさほどでもなかった上海路のヒルクレストからアメリカ大使館まで、そして以前はやはりあまり使われていなかった新住宅地の寧海路が今やメインストリートになっている。上海路はあまりにも混雑しているので、自動車で通ろうとしても無理になっている。このすべての変化はほんの何週間のことだった。その理由は簡単で、ここの人々には安全区内にいて一種の秩序が出来上がり、以前あったような一般的な略奪や盗難が無くなって、人々は以前より大胆に道路に出るようになったのだ。彼等は道端に沢山の急造した店を設け、安全区内のすべての店は小さいとはいうものの商売は活発に行われている。安全区の外での商売は全く無い。(246頁)
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この手紙には、安全区の有用性は日本軍の占領後に証明されたとある。また安全区の中心部の賑やかなこと、自信を回復した民衆が活き活きと生活していることなどが書かれている。


ミルズはベイツと同じく、事件当時南京に在住していた宣教師などのキリスト教関係者9人のうちの一人です。
アメリカ人の「南京虐殺の目撃証人」は一人もいなかった(1)9人の『南京虐殺の目撃証人』 / 南京の真実を知らせ隊2014.09.11
http://mayuryou1025.blog76.fc2.com/blog-entry-454.html


もし日本軍が安全区に侵入してベイツの主張のように当時の安全区人口の15%にあたる多数の人々を殺したとすれば、ミルズが手紙の中でこんなことを書くであろうか。ベイツの書いていることは実際の南京、安全区の状況とは何の関係もない作り話であることは明白である。要するにベイツは全くのウソを書き連ねているのである。
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『南京大虐殺』と言う歴史歪曲による不当な冤罪を多くの人達にしってもらおう!
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