「南京事件 国民党極秘文書から読み解く」の一節 その10◆極秘文書という玉手箱を開いてみると

2014.10.12.18:10

◆極秘文書という玉手箱を開いてみると

東京裁判では、四万人虐殺を南京在住のベイツ教授が証言する一方、蒋介石政府は三十万人虐殺を主張した。本書で見てきたように、蒋介石の中央宣伝部はアメリカの新聞記事に南京大虐殺が出ても、そのために緊急記者会見を開いて、内外の記者団の前で南京大虐殺を非難したことはなかった。それにもかかわらず、日本が敗色濃厚となり始めた一九四三年(昭18)、アメリカで出版した『チャイナ・ハンドブック一九三七~一九四三』には、「日本軍は首都南京を占領すると、中国人市民の組織的殺害、女性にたいするレイプ、資産の焼却、略奪を始め、それが約五ヶ月間も続いた」と記した。そして、その翌年に出した『チャイナ・ハンドブック一九三七~一九四四』と、東京裁判の最中の一九四七年(昭22)にアメリカで出した『チャイナ・ハンドブック一九三七~一九四五』には、「侵入者は南京を占領すると、外部とのすべての連絡を遮断して、南京を組織的に略奪し始めた。南京における日本軍の大量の虐殺と、レイプと、殺人と、略奪と、残虐行為の物語は、現代史上、前例がなかった」と記していた。こうして、東京裁判では三十万人虐殺を主張したのである。

東京裁判でアメリカ側は、南京大虐殺「数万」という起訴状を読みあげた。しかしそれから約二年半後の昭和二十三年(一九八四)十一月十一日には南京大虐殺「二十万人以上」という「判決」が朗読され、その翌日には松井石根司令官にたいして南京大虐殺「十万以上」の責任を問うという「判定」が朗読された。

このように「二十万以上」が一日後には「十万以上」となること自体、不思議なことであった。昭和二十年十二月八日に出た「太平洋戦争史――真実なき軍国日本の崩潰――連合軍司令部提供」のいう「確証」は、遂に東京裁判の判決においても示されることはなかった。したがって、第一章でも述べたように、この東京裁判の断罪は、その後一九七〇年(昭45)まで、有名無実のごとくであった。中国の教科書にも、日本の教科書にも、世界の教科書にも、南京大虐殺が書かれることはなかった。

当時、南京大虐殺の源流を作った中央宣伝部の人たちも、その宣伝戦に関係した人たちも、真実を明かすことはなかった。誰もが黙していた。しかしあれから七十年、極秘文書が出てきた。極秘文書という、中央宣伝部に結集した国民党員と共産党員の真の胸の内を収めた玉手箱が、今や開かれたのである。その玉手箱の中に、南京大虐殺の確証があるかと思いきや、それはなかったのである。
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