南京攻略戦と近衛声明 ~ゾルゲ事件と大東亜戦争 杉本幹夫 より

2014.10.13.19:57

ゾルゲ事件と大東亜戦争 杉本幹夫(自由主義史観研究会理事(3)

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1937年10月~1938年1月 トラウトマン工作の失敗と第一次近衛声明
一〇月、日中戦争の予期せざる激化に、近衛内閣は第三国による調停を模索した。それに対し日独伊三国協定に関し交渉中のドイツが応じ、駐支大使トラウトマンが中心となり、調停工作が始まった。


尚この頃は日独防共協定があったにも関わらず、ドイツは蒋介石政権を支援していたのである。
一九二八年(昭和三年)以来、ドイツは蒋介石政権援助のため、軍事顧問団を派遣していた。当時はファルケンファルゼン将軍を団長として、二〇数人の元将校と一〇人前後の民間人が個人契約により、中国政府に雇用されていた。彼らの指導により、上海戦は日本が大変な苦戦を強いられた。

しかしこの顧問団の存在が、トラウトマン工作を中立的なものとし、一二月七日日本側提案を基礎とするとの合意案が、ディルクセン駐日大使から広田外相に伝えられた。

ところがこのこの日は南京攻略戦が発動された日であり、更に一三日の南京陥落により、日本側の条件が一気にかさ上げされた。

そして翌一月九日大本営政府連絡会議、一一日の御前会議で、「シナ事変処理根本方針」が決定された。この決定には蒋介石政権の最終回答期限を一五日と設定したが、この期限に回答が無く、この「シナ事変処理根本方針」が決定された。

ここで注目されるのが、参謀本部が大反対で、多田参謀本部次長は「中国の最終回答を待たず、長期戦に移ることは絶対反対である」と主張していたことである。軍部独裁と言われるが、軍部にも色々な意見があったのである。

かくて一六日有名な「爾後国民政府を相手にせず」との第一次近衛声明が発表され、トラウトマンによる調停工作は打ち切られた。

尚これは前年一二月北京に中華民国臨時政府が作られ、三月には南京に中華民国維新政府を作り、分治政策をとろうとしたものである。しかし同時にこの方針の中には、「新興中央政権の成立を助長し、これと両国国交の調整を協定し」と後の汪兆明引き出し工作が暗示されている。

1938年3月~9月 宇垣外相ー孔祥煕工作
五月二六日近衛内閣の改造により、宇垣一成が外務大臣に就任した。

それより先、三月末国民政府行政院長・孔祥煕(蒋介石夫人・宋美齢の姉の夫)の意を体した使者が、宮崎滔天の一門の松本蔵次と接触してきた。彼は同じグループの茅野長知につなぎ和平交渉が始まった。茅野ー孔祥煕間でまとまり、次の趣旨の孔祥煕からの書面が出された。
1.日華双方共即時停戦すること
2.日本は中国の主権を尊重し、撤兵を声明すること
3.日本側の要求する満蒙問題の解決については、原則的に合意するが、具体的には日華両国で協議すること

茅野はこの書簡を持ち、帰国し、板垣陸相、近衛首相と会談し、五月一七日か一八日に上海へ戻った。その時中国側の事情で二,三日待たされた間に松本重治にその報告をした。これが運命の日であった。

その後香港で中国側と話を詰め、六月二八日東京に戻った。その間に松本重治、高宗武が上京し、板垣陸相、近衛首相に全く逆の情報を流しており、この茅野ー孔祥煕交渉は挫折した。(三田村武夫『大東亜戦争とスターリンの謀略』)

しかし中公新書『宇垣一成』によると、五月二六日入閣した宇垣外相はこの孔祥煕工作にその後も望みを持ち、軍艦上で宇垣ー孔祥煕会談を行う話まで行ったが、九月末興亜院設置問題で宇垣が外相を辞し、この構想は完全に挫折した。この興亜院問題は宇垣外しの目的のようであり、陸軍統制派と宇垣のかねてからの確執にけりを付けると共に、茅野ー孔祥煕交渉の敗北、影佐、松本重治、高宗武による汪兆銘引き出し工作の勝利であった。

交友関係より、この影に尾崎がいたことは確実であろう。

一一月近衛第二次声明が出され、汪兆明派と日華協議記録が調印された。
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