日本に勝機はなかったか 日独伊三国同盟の締結 ~ゾルゲ事件と大東亜戦争 杉本幹夫 より

2014.10.14.06:14

ゾルゲ事件と大東亜戦争 杉本幹夫(自由主義史観研究会理事) (6)

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東条内閣の成立
外相を更迭した近衛はルーズベルトとのトップ会談を模索した。
しかし、八月ルーズベルト・チャーチル会談が大西洋上で行われ、ルーズベルトは近い将来の対日宣戦、ヨーロッバ戦線への参戦をチャーチルに約束している。
尚吉田善吾海相は病気により九月五日辞任し、及川古志郎と交替した。

この頃になると日米開戦の必然性が問題となり出した。九月六日の御前会議で、「一〇月上旬までに目途が立たない場合には日米開戦を決意する」事が決定された。
この一〇月上旬という期限について、永野軍令部総長は「油その他の重要資材は次第に涸渇してくる。一方米国の軍備は急速に増強されている。明年後半になれば彼我の力は大差がつくであろう。開戦が止むを得ないなら、早期に開戦すべし」と主張した。海軍も若手、中堅層を中心に即時開戦論が主流となった。

一〇月二日ハル国務長官は、野村大使に「従来からの要求である四原則の確認と、日本軍の中国・仏印からの撤退を要求する」覚書を手交した。

一〇月一二日近衛は私邸の荻外荘に五相(首・陸・海・外・企画院総裁)を招き、懇談会を開いた。その会議前、海軍の軍務局長より、内閣書記官長に、「海軍は交渉の決裂を欲しない。即ち戦争を極力回避して欲しい。しかし海軍としては表面に出してこれを言う訳にはいかない。今日の会議では首相に一任すると言うので、お含み願いたい」と申し入れてきた。
この会では交渉成立の見込みの有無について、近衛、豊田が有りと主張し、東条が無しと主張し、意見不一致のまま散会した。(林茂『太平洋戦争 日本の歴史25』中央公論社)

一四日閣議前の近衛・東条会談も不調に終わった。この会談では近衛は「一時屈して撤兵の形式をアメリカに与え、日米戦争を回避した上でシナ事変にけりを付け、無傷の陸海軍を残して、相当の発言権を残しておくことが、国家の為だ」との判断を示した。
それに対し、閣議の席上東条陸相は「アメリカの要求通り撤兵すると、シナ事変の成果のみならず、満州国も瓦解する上、朝鮮の統治も壊滅する事は明らかであるから、無条件で撤兵することは断じて出来ない」と主張した。(今井庄次・安岡昭男編『海外交渉史の視点3』日本書籍)

この日の午後武藤陸軍軍務局長が富田書記官長を訪ね、「どうも総理の腹が決まらぬのは海軍の腹が決まらないからだと思う。海軍が本当に戦争を欲しないのなら、陸軍も考えねばならぬ。しかるに海軍は陸軍に向かって、表面はそういうことを口にしないで、ただ総理一任という。総理の裁断と言うだけでは陸軍部内を抑えることは到底出来ない。しかし海軍がこの際戦争を欲しないと公式に言ってくれれば部下を抑えるにも抑えやすい。なんとか海軍がそういうふうに言ってくるように仕向けて貰えないか」と申し入れた。
富田が岡海軍軍務局長に伝えると、岡は「海軍としては戦争を欲しないとは正式には言えない首相の裁断に一任というのが精一杯である」と答えた。海軍は明らかに責任を回避した。しかし富田は後に、「陸軍もそういう海軍の態度を見越した上で、海軍にそれを言わせようとした。」と言い、「首相は首相で外相の見通しに頼っていたが、外相は判らぬと言うことで、要するに八方塞がりだった」と述べている。(林茂『太平洋戦争 日本の歴史25』中央公論社)

このような責任のなすり合いの末、一六日近衛は内閣を投げ出した。

尚一五日にゾルゲ逮捕されている。
これについて武藤軍務局長は尾崎の逮捕に反対であったが、東条は近衛追い落としのため、逮捕を主張したと言われる。

後継内閣の東条内閣は、南部仏印からの撤兵と引き替えに石油輸出の再開を条件とする最終案を提出、一縷の望みを託したが、一一月二六日日本の希望を一切否認するハルノートが出され、結局日本は大東亜戦争に踏み切った。

日本に勝機はなかったか。海軍の責任
それでは日本軍の勝算は何処にあったのか。
四一年一一月一五日、大本営政府連絡会議が決定した対米英蘭蒋戦争終末促進ニ関スル腹案-。


対米英蘭蒋戦争終末促進に関する腹案 / 南知隊 2014.10.14.
http://mayuryou1025.blog76.fc2.com/blog-entry-506.html

要約すれば、東南アジア諸国を速やかに押さえ、自給体制を整えると共に、インド洋の制海権を握り、アフリカ戦線で戦っているドイツ軍と連携し、イギリスを降伏させる。米海軍は日本の近傍に誘致し、これを撃滅させると言う物であった。

当時ドイツのロンメル軍は北アフリカでイギリス軍と激戦を続けており、四二年六月にはエジプト国境を越え、スエズに迫っていた。
ドイツが敗戦し、撤退を始めたのは四二年一一月である。
日本軍がミッドウェーやガダルカナルに向かわずにインド洋に向かい、スエズからロンメルと連携を図れば、全く可能性がなかったとは言えない。
シンガポール陥落は二月一九日、ラングーン(ヤンゴン)陥落は三月八日である。
降伏したインド軍の中には、インド独立のため、日本軍の一部として参戦を希望した将兵も多数いた。
彼らをカルカッタ、ボンベイ(ムンバイ)等にゲリラ兵として送り込み、戦艦大和との連携で港湾施設を麻痺させる事も可能だったかも知れない。
 
連合軍の大補給路は喜望峰から紅海経由エジプト戦線、パキスタン、イラン経由ソ連、インド経由中国であった。
まさにインド洋を押さえれば、ドイツ軍との連携がとれ、四三年一月のスターリングラードにおけるドイツ軍の降伏もなかったであろう。
アメリカからの補給物資が届かなければ蒋介石も悲鳴を上げたかも知れない。


しかしこの文面には豪州と英本土の通商破壊も潜り込ませている。これにより、海軍はオーストラリアとアメリカの通商路の遮断を優先しようとしたのである。
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