会談「教科書が教えない昭和史」文芸春秋2009年4月号

2014.10.24.04:09

文芸春秋2009年4月号
決定版◎「小さな大国」日本が世界を震撼させたとき――
教科書が教えない昭和史――あの戦争は侵略だったのか

半藤一利/福田和也/秦 郁彦/別宮暖朗/北村 稔/林 思雲

1 国際法で日本は勝利した――日清戦争
2 明治の叡智とリーダーシップ――日露戦争
3 侵略戦争が遂に禁止された――パリ不戦条約
4 連盟に挑んだ“天才”の挫折――満州事変
5 激論 悪いのは日本か中国か――日中戦争
6 仕掛けられた戦争犯罪の罠――東京裁判

<略>

北村「これまで一般には、日中戦争と言えば『日本が一方的に侵略し、中国が侵略された戦争』として論じられてきました。しかし・・・必ずしもそうでないことが分かってきたのです。 日本の方がむしろ全面戦争を望まず、局地的な戦闘の段階で何とかくい止めたいと考えていたのに対し、中国側はドイツの軍事顧問団の力を借り、全面戦争に日本を引き込む計画を早くから練っていた。」

林「日中間で大規模な戦争が開始された本当の発端は、1937年8月13日に発生した第二次上海事変です。蒋介石は、五千人あまりの日本海軍特別陸戦隊への総攻撃を命じました。中国側が仕掛けた戦争であったのは事実です」

北村「事変当時のニューヨークタイムスには、『日本は敵の挑発の下で最大限の忍耐を示した』、『日本軍は上海では戦闘の繰り返しを望んでおらず、我慢と忍耐力を示し、事態の悪化を防ぐためにできる限りのことをした。だが中国軍によって文字通り衝突へと無理やり、追い込まれてしまったのである』との、上海に駐在していた各国の政府職員のコメントが掲載されています」


秦「今の意見に、私は同意できません。盧溝橋事件の四日後の7月11日、現地停戦協定が結ばれたものの、同じ日に、近衛文麿首相は官邸に政財界人や新聞記者等を招いて、鳴り物入りで『北支派兵に関する政府声明』を発表します。そして7月28日、日本軍は総攻撃を開始、北京・天津一帯を占領しました。さらに、この日、日本は内地から五個師団20万人の派兵を決定している。すでに戦争は北で始まっていて、蒋介石は相対的に有利な南の上海で決戦することを求めただけでしょう。それは当然の判断で、中国が上海を攻めたから侵略だ、というのは成り立ちません」

北村「しかし、北京を占領した後に、日本は和平への動きを始めていますね。8月の初めに在華紡績同業界総務理事の船津辰一郎に和平工作を委任します。いわゆる船津工作です。日本側としてはむしろこれ以上戦線を拡大したくない、という気持ちが強かった」

秦「もし、日本に本当に戦意がないことを示したかったら、北京を占領した後で撤兵すればいい。もし北京から撤退していたら、蒋介石は上海を攻めていなかったでしょう。しかし、実際には北京占領後も日本は動員と南下を続けます。和平交渉は本気ではなく、中国側を油断させるための謀計だと思われても仕方がない」

林「日中戦争より以前から、蒋介石は全面戦争を戦うための作戦計画を構想していました。北部にはあまり軍を送らず、上海など揚子江のラインに主力を結集させる。もし日本が攻めてきたら、奥地深くに本拠地を築き、日本軍をおびき寄せて消耗戦を行う――というものです。そして、実際にその通りに戦争を進めています」

秦「その通りです。結果的に日本は中国の思う壺にはまってしまった。しかし、それも「もし日本が攻めてきたら」という防衛的なものですよ」


この後、ドイツが中国に軍事顧問団を派遣し、中国軍の軍事訓練をしたり、上海周辺に防御陣地を構築したり、武器を供与したりしていたこと。その一方で、ドイツがトラウトマン和平工作に乗り出したことについて、それをどう解釈するかの議論がなされます。

別宮-ドイツの将校団が蒋介石に日中戦争を進言し、蒋介石はそれを受け入れたことを、日中戦争の計画が中国側にあった証拠としています。

秦「ドイツは本気で日中和平をまとめる気があったんですかね。私はどうも本気じゃなかったような気がしてなりません」


だれがこの戦争を「最も強く望んだか」-、林氏は、中国にも和平派と主戦派があり、和平派は領土の一部を与えてでも日本との戦争を避け全力で近代化を果たすべきだという立場で、そうした立場を支持する人は、少数派ではあるが国の中枢にある人やインテリが多かった、といっています。これに対して、主戦派は三つのグループに分かれ、第一は過激な学生や市民、第二に共産党、第三が地方軍閥だった。その中で蒋介石は和平派に属していて初めは「安内攘外」戦略をとっていたが、西安事件でこの路線は挫折、盧溝橋事件以降、わき上がる抗日の声に抗しきれなくなった。その背後には、「強硬な反日抗日を売り物にして、隙あらば政敵を「日本に対して弱腰だ」と攻撃する共産党、地方軍閥といったライバル」がいて彼らと戦う必要があった、といっています。

林「一方、日本にはたして北京占領後の戦争計画があったのかどうかは疑問ですね。全面戦争の意欲があったようには見えません。」

福田氏は「上海を攻められたとき、大蔵大臣の賀屋興宣は、日本の経済状態ではとても大戦争には耐えられないから、軍隊は出せない」といったことを指摘しています。

別宮氏は「石原が不拡大方針を唱え続けたのも、ここで中国と消耗戦を始めたら、本来の仮想的であるソ連に備えることができなくなる」と考えていたからだといっています。


さらに、上海事変が始まっても、不拡大方針は堅持され、日本の派兵の目的はあくまで現地居留民保護であったこと。多田参謀次長は、日本軍の前進統制線とか攻撃限界戦などを設定して、それ以上の戦争拡大を防ごうとしたことが指摘されています。

秦「和平交渉は本気ではなく、中国側を油断させるための謀計だと思われても仕方がない」

秦「戦争をやめられなかったのは何故か。満州事変もそうでしたが、この時期の日本軍は深刻な機能不全に陥っていたと思います。つまり、上部から攻めろといわれれば攻める、止まれと命じられたら作戦行動をピタッとやめなければ、近代の戦争は成り立ちません。しかし、満州事変や日中戦争では、軍の中央が何度も「ここで停止せよ」と指示を出しているのに、現地軍が勝手に進撃してしまう。政府が軍部をコントロールできないばかりか、軍の中央が軍の出先をコントロールできないのです。

半藤「上海から南京への追撃がいい例ですが、せっかく多田駿参謀次長が前進統制線とか攻撃限界線などを設定しても、現地軍にあっという間に踏みにじられてしまう。日露戦争では非常に軍律を厳しくして、現地軍の逸脱を許さなかったのですが、日中戦争の日本軍は軍律がどこにあるのかと言いたくなる。ルールを守るという感覚が非常に希薄になっているのです。」

福田「そうなってしまった最大の理由は、戦争目的がはっきりしていなかったことでしょう。どこまで戦えば作戦完了なのかも判然としない。だから、中国軍が退くと、どこまでも追撃せざるを得なくなってしまうのです。」

半藤「さらに問題なのは、ゴールの見えない状態で闇雲に戦争を続ける中で必然的に欧米諸国が中国に持っている権益をも侵害してしまったことです。日中戦争が続くなか、ソ連、イギリス、アメリカといった国々がだんだん蒋介石支援に回り、日本への敵対姿勢を明らかにしていきます。」


<中略>

林「実は、1930年代の初めに、中国主戦派のなかで、こういう議論がありました。――日本が中国で自分の権益を拡大していくと、いずれ必ず他の列強とぶつかる。列強が満州事変を黙認したのは、もともと満州が日本の勢力範囲であり、他国の権益を直接侵害しなかったからだ。だから、中国としては、戦火を中国全土に広げる必要がある。そうすれば、列強は自らの権益を守るために、日本に干渉を加える可能性が高い、と。」

北村「まさに「孫子の国」らしい戦略的発想です。日本人にはまず出てこない。こうした発想を長年培ってきた民族が、すぐ隣の国に何億人もいることを、日本人はよくわきまえておく必要がある。」


別宮「戦争も外交も、味方を増やし、敵を減らすことが要諦です。それが、この時期の日本は、自らの正義を主張することには関心があっても、味方を増やすことにはほとんど関心を払っていないように思えますね。」

<中略>

半藤「-最後まで日本は日中戦争の具体的な目的を見いだせないままだった。それが、この戦争の最大の失敗ではなかったでしょうか。」

北村「蒋介石が1938年に書いた「抗日戦の検討と必勝の要諦」には、日本の長所として「小ざかしいことをしない」「研究心を絶やさない」「命令を徹底的に実施する」「連絡を密にした共同作業が得意である」を挙げ、短所に「国際情勢に疎い」「持久戦で経済破綻を生ずる」、そして「なぜ中国と闘わねばならぬかが理解できていない」と記されています。残念ながら、日中戦争を見事に要約しているといえますね。」
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