「「南京大虐殺」のまぼろし」事実が変貌する過程

2014.11.04.05:21

「南京大虐殺」のまぼろし」 第一章「南京大虐殺」のまぼろし : 事実が変貌する過程

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この話は、当時の「東京日日新聞」のマイクロフィルムから、直ちに発見することができた。この記事は、三回にわたって「後日譚」として掲載されており、「東日」の特ダネらしく、他紙にはいっさいみられない。これも、原文を引用させて頂く。

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昭和十二年十一月三十日の記事

「(常州にて廿九日、浅海、光本、安田特派員発)常熟、無錫間の四十キロを六日間で踏破した○○部隊の快速はこれと同一の距離の無錫、常州間をたつた三日間で突破した。まさに神速、快進撃、その第一線に立つ片桐部隊に『百人斬り競争』を企てた二名の青年将校がある。無錫出発後、早くも一人は五十六人斬り、一人は廿五人斬りを果たしたといふ。一人は高山部隊向井敏明少尉(二十六)=山口県玖珂郡神代村出身=。一人は同じ部隊野田毅少尉(二十五)=鹿児島県肝属郡田代村出身=。柔剣道三段の向井少尉が腰の一刀『関の孫六』を撫でれば、野田少尉は無銘ながら先祖伝来の宝刀を語る。
 無錫進発後、向井少尉は鉄道線路廿六・七キロの線を大移動しつつ前進、野田少尉は鉄道線路に沿うて前進することになり、一旦二人は別れ、出発の翌朝、野田少尉は無錫を距る八キロの無錫部落で敵トーチカに突進し、四名の敵を斬って先陣の名乗りを上げ、これを聞いた向井少尉は憤然起つてその夜横林鎮の敵陣に部下とともに躍り込み五十五名を斬り伏せた。
 その後、野田少尉は横林鎮で九名、威関鎮で六名、廿九日常州駅で六名、合計廿五名を斬り、向井少尉はその後常州駅付近で四名斬り、記者が駅に行つたとき、この二人が駅頭で会見してゐる光景にぶつかった。
向井少尉 この分だと、南京どころか丹陽で俺の方が百人くらゐ斬ることになるだろう。野田の敗けだ。俺の刀は五十六人斬って刃こぼれが、たつた一つしかないぞ。
野田少尉 僕等は二人共逃げるのは斬らないことにしてゐます。僕は○官をやつてゐるので成績があがらないが、丹陽までには大記録にしてみせるぞ」


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昭和十二年十二月十三日の記事

「(紫金山麓にて、十二日浅海、鈴木両特派員発)南京入りまで『百人斬り競争』といふ珍競争をはじめた例の片桐部隊の勇士、向井敏明、野田巌両少尉は、十日の紫金山攻略戦のどさくさに、百六対百五といふレコードを作って、十日正午両少尉はさすがに刃こぼれした日本刀を片手に対面した。
 野田『おいおれは百五だが、貴様は?』向井『おれは百六だ!』・・・・・・両少尉《アハハハ》結局いつまでに、いづれが先きに百人斬ったかこれは不問、『ぢやドロンゲームと致そう、だが改めて百五十人はどうぢや』と忽ち意見一致して十一日からいよいよ百五十人斬りがはじまった。十一日昼、中山陵を眼下に見下す紫金山で敗残兵狩真最中の向井少尉が『百人斬りドロンゲーム』の顛末を語つてのち、『知らぬうちに両方で百人を超えてゐたのは愉快ぢや。おれの関の孫六が刃こぼれしたのは、一人を鉄兜もろともに唐竹割りにしたからぢや。戦ひ済んだらこの日本刀は貴社に寄贈すると約束したよ。十一日の午後三時、友軍の珍戦術、紫金山残敵あぶり出しに、おれもあぶり出されて、弾雨の中を『えい、ままよ』と刀をかついで棒立ちになつてゐたが、一つもあたらずさ。これもこの孫六のおかげだ』と飛来する敵弾の中で、百六の生血を吸つた関の孫六を記者に示した」

(昭和十二年十一月三十日及十二月十三日付「東京日日新聞」〈現在の毎日新聞〉から)


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もとより、今の時点で読めば信じられないほどの無茶苦茶極まりない話だが、この話が人づてに中国にまで伝わっていくプロセスで、いくつかの点がデフォルメされていった。第一には、戦闘中の話が平時の殺人ゲームにされていること。第二に原文にはない「上官命令」という形が加えられたこと。第三に、百人斬りが三ラウンドくり返されたように作られてしまっていること、などであろう。そして、これは僕が思うのだが、この東京日日の記事そのものも、多分に事実を軍国主義流に誇大に表現した形跡が無くもない。確かに戦争中はそういう豪傑ぶった男がいたことも推定できるが、トーチカの中で銃を構えた敵に対して、どうやって日本刀で立ち向かったのだろうか? 本当にこれを「手柄」と思って一生懸命に書いた記者がいたとしたら、これは正常な神経とは、とても思われない。

この記事には「浅海光本両特派員発」というクレジットがついている。この浅海とは、あるいは、毎日新聞の大記者として著名であり、また新中国の理解者として昨年『新中国入門』を書いた浅海一男氏のことではないだろうか?「諸君!」編集部のたしかめたところによると、このクレジットにある「浅海」とは、まさに浅海一男氏のことなのだが、実際これを取材したのは光本氏の方であり、しかも光本氏はすでに死亡しているとのことで、この件についてのこれ以上のことをたしかめる余裕はなかった。

事の真相はわからないが、かつて日本人を湧かせたに違いない「武勇談」は、いつのまにか「人斬り競争」の話となって、姿をかえて再びこの世に現れたのであるやや皮肉めいていえば、昭和十二年に「毎日新聞」に書かれたまやかしめいた「ネタ」が、三十四年の年月と日本、中国、日本という距離を往復して「朝日新聞」に残虐の神話として登場したのである。いわば、この「百人斬り」の話によって、ある「事実」が、地域を越え、年月を経ることによって、どのように変貌してゆくかという一つのケースを、われわれは眼前に見せつけられたわけである。

ともあれ、現在まで伝えられている「南京大虐殺」と「日本人の残虐性」についてのエピソードは、程度の差こそあれ、いろいろな形で語り継がれている話が、集大成されたものであろう。被害者である中国がこのことを非難するのは当然だろうが、それに対する贖罪ということとは別に、今まで僕等が信じてきた「大虐殺」というものが、どのような形で誕生したのか、われわれの側から考えてみるのも同じように当然ではないのか。無論、僕個人がこの事件を解明するなどということはもとより不可能なことだろうが、それにもかかわらず、敢えて自分の眼で見た「南京」のイメージを綴ってみようと思い立ったのは、実は冒頭の、「ちょっと待てよ」というあの瞬間が動機となったことは事実である。

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「「南京大虐殺」のまぼろし」 【目次】&カスタマーレビュー / 南知隊
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