渡部昇一先生読本(1)「年表で読む日本近現代史」(上)初回版と戦前編

2015.01.23.06:12

「年表で読む 明解! 日本近現代史」 渡部昇一著 海竜社出版 
1575円 2004年.6月.出版

解説
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 ご存知、渡部昇一先生が日本の近現代史を見開き2ページごとに年表とともに解説。明治維新から小泉内閣の行方まで、歴史の真実が即解できます。貴重な写真資料も豊富で、見ているだけでも満足できます。
 同時に、日本人に植え付けられた歪んだ歴史観に惑わされることなく、ひとりひとりが自分自身の目で歴史を見据え、判断すべきであることを“渡部流モノの見方”から知り、今後、日本人としてどのような態度で世界に臨むべきか、年表の中にある先人の姿勢から学ぶことができます。内容豊富な一冊です。

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日露戦争開戦 1904年(明治37年) 元寇の悪夢の再現を恐れた祖国防衛戦争

<南下するロシアは、元寇の再来>
日清戦争と同じく、この日露戦争も、朝鮮と満州の支配をめぐる戦争、とされているようだ。
しかし、このように「支配」をやたら強調する歴史観には、なぜ日本が満州にこだわり、そのために大国ロシアに挑まねばならなかったかという視点が、完全に欠如している。

韓国政府が新露派に転じたことで、ロシアは、南下政策を一気に推し進め、韓国に対する支配力を強めていた。
日本にとって最大の懸案事項は、やはりロシアの軍事拠点の拡大である。
満州まではともなかく、鎮海湾までおさえられたら、朝鮮全体がロシアの手の内にはいることになる。
鎌倉時代の蒙古襲来でも、モンゴル軍は鎮海湾周辺の港から対馬、壱岐を経て、北九州に上陸した。
ロシアの南下政策には、その悪夢を彷彿とさせるものがあったのだ。
こうした危機感から、日本は必至の抗議を重ねるが、ことごとく無視される。
それでも策を練り、伊藤博文が日露協商を提案するが、日本を狙っているロシアが応じるはずもなかった。
ここに至って、日本政府はロシアと戦うということを覚悟せざるを得なくなってくるのである。
(P62)

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桂・ハリマン仮条約 1905年(明治38) アメリカの念願を叶えていれば、日米関係はこじれなかった

<アメリカの念願、シナ大陸進出>
日露戦争で勝った日本は、ポーツマス条約によって、満州の長春(新京)から旅順までを走る鉄道などの権益を得た。
満州と聞くと、満州事変、満州国建国などと、大東亜戦争直前の日本を思い浮かべるのが普通だろうが、それよりずっと前に、満州はすでに日本の将来を大きく変えた事件の元になっていた。

それが、桂・ハリマン仮条約である。
このときの対応次第には、日本は大東亜戦争に突入せずにすんだとも考えられるほど、重大な出来事だった。
満州の鉄道の権益を得た日本は、その後、南満州鉄道株式会社(満鉄)を設立する。
満鉄は鉄道事業のみならず、炭鉱、製鉄、電力、港湾、倉庫など、さまざまな関連事業を行うようになり、軍事、経済、港湾、倉庫など、さまざまな関連事業を行うようになり、軍事、経済の両面で、日本の満州経営の柱となっていく。
そのような進展を遂げる可能性のある満州の鉄道に目をつけたのが、アメリカの鉄道王ハリマンだった。
そして、日本に満州の鉄道の共同経営を持ちかけるのである。
(P74)

<賛成した明示元勲、反対した小村>
明治の元勲、井上馨は、この突然の申し出にピンときた。
いまや満州は日本の支配下にあると言っても、北の方ではまだロシアの影響が強かった。

だから今の内に、アメリカという強力な協力者を受け入れておけば、のちのちのためになると考えたのである。
また資金繰りという点から考えても、共同経営は、魅力的だった。
やはり幕末から維新を生き抜いてきた外交功労者だけある
井上や伊藤には、大局を見る目、高度な外交センスがあったのだ。

しかし、そこへポーツマスでの講和会議から帰国した外相、小村寿太郎(1855~1911)が強硬な反対論を繰り広げ、強引に仮条約を吐きさせてしまったのである。

ポールマス条約をまとめた身としては、日本兵の尊い血を流して手に入れた満州の権益をハリマンと共有するなど、とうてい許せることではない。
こう主張する小村の議論が、実利を取る井上らを封じてしまったのだ。
当然、ハリマンは条約破棄に激怒した。
それは、アメリカという国を起らせたも同然だった。

ただでさえアメリカは、有色人種とみくびっていた日本が大国ロシアを破ったことに脅威を感じ始めていた。
そこへ、仮条約を一方的に破棄されたのでは、敵愾心生まれても仕方ない。
小村寿太郎といえば、日露平和条約の功労者であり、愛国者である。
そのため、ここで批判するには忍びないのだが、この条約の成立を阻害した責任は、大きいと言わざるを得ない。
(P75)

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アメリカの排日運動 1906~1913(明治39~大正2) アメリカが公的に行った「日本人いじめ」

<日本人排斥を導いた悪しき”先例”>
日露戦争の衝撃と、桂・ハリマン仮条約破棄という腹立たしい一件により、アメリカ全体の対日感情も一変した。
気の毒なことに、まっさきにその憎しみの標的になったのは、在米日本人だった。
当時アメリカには、多くの日本人移民がおり、農業や商店などで生計を立てていた。
その日本人を排斥する動きが、ふつふつと沸き上ったのである。

そもそもアメリカには、気に入らない移民を迫害するという、悪しき”先例”があった。

19世紀半ばのゴールドラッシュで、アメリカには大量のチャイニーズ・クーリーズ(下層低賃金労働者)が西海外から流入した。
大半の仕事は鉄道建設だったが、彼らは低賃金ながら貯蓄に励んだ。
そして、土地を買う。商店を開くなどしはじめ、中には大きな資産を築く者もいた。

ずっと奴隷としてこき使おうと思っていたシナ人が、自分たちを凌ぐ勢いで財を築いている。
また、東海岸から西進してくる白人にしてみれば、行く先々に有色人種がいる。
このことが、アメリカの白人の癪にさわったのである。
かくしてシナ居住区がたびたび襲撃されるようになり、多くのシナ人が殺された。
一つのシナ人村が丸ごと虐殺されたりもした。
そして1902年には、シナ人移民を完全に禁止する法律まで制定されたのである。
(P78)

<根元にあるのは、嫉妬と恐怖>
そのシナ人に入れ替わるようにして、19世紀末ごろ、今度は日本人が入ってきた。
彼らは驚くべき器用さで荒地を素晴らしい農地に変え、いきいきと生活を営んでいる。

しかも、彼らの祖国はあのロシアに勝ち、さらにまとまりかけていた満州鉄道共同経営の約束を、一方的に破棄した。

こうした背景で始まる排日運動は、シナ人排斥と同類のものと言えよう。
いや、この場合は嫉妬心だけではなく恐怖心もあっただけに、さらに悪質だった。

1907年(明治40)には、同じくサンフランシスコで反日暴動が起き、多くの日本人が殺傷された。
しかし、1908年(明治41)日本が移民を自粛する代わりに、排日的な移民法をつくらないと約束する日米紳士協定が成立し、事態は多少好転するかに見えた。
ところが、1913年(大正2)カリフォルニア州で排日土地法が成立する。
日米紳士協定で交わされた約束は、やすやすと破られたのだ。
このようにして、西海岸を中心に、排日的な雰囲気がどんどん高まっていき、ついに1924年(大正13)には、排日移民法が成立するに至る。
(P79)
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