スポンサーサイト

--.--.--.--:--

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

「「南京大虐殺」のまぼろし」あとがき

2015.03.15.02:53

-----
昭和四十七年一月十五日のことである。それが一月十五日であったということは、車の中から見る若いお嬢さんたちが、恒例の和服に着飾って、鎌倉八幡宮の周辺に群がっていたことで、鮮やかに記憶している。

僕は知人から紹介を受けて、逗子に住む藤井さんという方を訪ねていった。藤井さんは「南京攻略戦」に戦車隊の隊長として従軍し、それからかなりの期間南京に滞在されていた、ときいたからであった。僕が藤井さんをお訪ねした動機は、まったく単純であった。昭和四十六年夏頃から、朝日新聞に本多勝一氏の「中国の旅」が連載され、僕もいろいろ心に掛かるものが残りながらも読まされてしまったのだが、「南京攻略戦」に参加した人ならば、これらの記事についてかなりの「真相」を語ってくれるに違いないと、いわば、フラリと出かけたのである。 藤井さんはその時「南京攻略」のアウトラインと「南京が陥ちれば凱旋できる」とほとんどの兵が信じていた当時の心理状態などを細かく語ってくれたが、「虐殺」については「私の見聞した範囲では、東京裁判などで伝えられている暴行については、見たことも聞いたこともないので、何ともいいようがない」とだけいった。 僕は実はこの時まで、当時「南京攻略戦」に参加した将兵にとっては、「大虐殺」の事実は「常識」になっているのではないか、と漠然と感じていただけに、藤井さんに「見たこともきいたこともない」といわれたことは、かなり意外であった。 最初は、藤井さんは旧軍人の立場から、当時の日本軍人の立場を守る意味で「知らない」といわれたのかとも思ったが、同じような「旧軍人」の方二、三名にきいても、返ってきた発言は、ほぼ藤井氏と同じようなものであった。

その頃になって、僕はようやく、いくつかのことに気が付きはじめた。一つは、当時のコミュニケーションというものが、今から考えれば想像もできないほど狭かったということである。多くの将兵は、自分が現実に見た眼の前のことしか知らない。同じ連隊はおろか、同じ中隊のことでも、残りの小隊のことは詳しくわからない、というほどの情報量の乏しさである。それ以外の余計なことは全く知らされなかったし、知らすべき機関もなかったし、知る必要もなかった。だから、知らないのである。つまり、極論すれば、「南京事件」なるものの全貌を知ろうとすれば、当時南京にいた数万といわれる将兵が今も全部現存していて、その全部について厳密な事実調べが行われなければ、それを知ることは出来ないわけである。そして、いうまでもなく、それは百パーセント不可能なことである。 だが僕が、この、ちょっとした見聞と動機によって、伝えられている「南京事件」について、「ある種の疑問」を持つようになったのは事実である。ある事件が起きたとき、人間は誰しも、それが「何時」「どこで」「どのように」「どういう理由で」起きたかを知りたいと思う。まして「南京大虐殺」のような歴史的な事件に対して、被告側である日本人がそれを思うのは当然であろう。しかし、どういう訳か、僕が読んだどの本にも、この四つの疑問符に対して僕を納得させるようなものは、ただの一冊もなかった。

僕はこの時、初めて、当時の日本のマスコミに対して、ある怒りを感ずるようになった。 今考えると、これも全く錯覚だったわけだが、僕はこの時、当時の大新聞の従軍記者は、皆事件の真相を知っているのに、その勇気のなさから、真実をひた隠しにして、今日まできたのだと考えていた。そして、その怒りは同時に、今日陸続と中国に出かける記者が、当時の従軍記者と同じように何の真実も報道していないのではないかという「疑い」にもつながっていった。この種の「疑問」は、あるいは余りにも素人臭い書生論なのかも知れないが、僕は殊更に「素人が当然感ずる疑問」だけを取り上げ、「『南京大虐殺』のまぼろし」なる一文を「諸君!」昭和四十七年四月号に書いた。僕の書きたかったことは「南京大虐殺はまぼろし」ではなく「南京大虐殺」を《まぼろし》にしたのは、真実を語る勇気のなさであり、それは「昭和四十七年にも、また同じようなことが繰り返されているのではないか」という恐怖であった。

ところが、この一文に対して、全く予期しないところから反響があった。「南京大虐殺の真犯人」と世上伝えられてきた「百人切り」の少尉の未亡人からの投書である。僕はこの向井少佐の遺書を読んでいるうちに、どうしても関係者を歴訪したい衝動に駆られた。それは、僕が真相を知りたいという興味の他に、マスコミが当然伝えなければならないことを知らせてはいない、という抗議の意味の方が強かったかも知れない。「向井少尉はなぜ殺されたか」を考えることは、僕にとって「南京事件の真相」より、むしろ、過去現在のマスコミのあり方に対する怒りの方が遙かに問題であるはずであった。

だが、これを書き終わった頃、僕はもう「南京」の魅力から抜け出ることが出来なくなっていた。僕が古い南京の地図を手に入れ、これを睨み付けながら、様々な空想に思いを馳せたのもこの頃である。僕が手にした昭和八年の「上海―南京」間の列車時刻表には、上海を朝八時に出発する「特別快車」が、蘇州、無錫、常州、丹陽、鎮江を通って、午後二時半には南京に着く、と記してある。そこには、蒋介石が精魂を込めて作りつつあった「中華民国」の首都があった。北には揚子江が流れ、東には紫金山、玄武湖と風光明媚な行楽地があり、南は広く沃野が展けている。この首都で、昭和十二年の日本人が、「途方もない残虐事件」をやったと、皆が信じている。しかし、本当は何があったのか?「事件」があったからには、必ず「目撃者」がいるはずである。それは今、日本のどこに潜んでいるのか・・・・・・? 「『南京大虐殺』のまぼろし」を書いていた頃、僕は「大虐殺の真相を知ることなど、全く不可能」と、深く心に念じていたはずであった。しかし、このようなかつての考えは簡単に頭の片隅に追いやられ、いつの間にか、僕に与えられた時間のほとんど全てが、「南京事件」を考えることに費やされていた。

僕は戦史の専門家でもないし、文筆を専業としているわけでもない。だから、僕自身が頼りに出来るのは、僕自身が持つ「平凡な常識」と、ささやかな推理力と実行力だけである。僕はこれを唯一の武器として関係者を訪ねて歩き、その進行のままに、その状況を雑誌「諸君!」に分載していった。 今度一冊の本としてまとめるに当たって、本来ならば、当初書いた部分と最後に書いた部分との前後相矛盾する部分を整理し、重複する部分を削り取って、統一された体裁を整えるべきであろう。しかし僕は敢えて、それをしなかった。何故なら、僕が当初感じた「素人っぽい勘違い」や「怒り」は恐らく大部分が同じように「素人」である昭和四十八年に生きる日本人の「勘違い」に近いものであると考えるからである。そしてその「勘違い」が、どのような形で是正され、より「事件」の内部に踏み込んでいったのかという僕のプロセスを、僕はそのままの形で現在に生きる人たちに感じていただきたい、と念願したからである。 だから、いくらか不体裁であることは覚悟の上で、雑誌掲載時の論旨、取材経過などについては、そのまま一切書き改めるということをしなかった。実際にはこの本をまとめるに当たって、発表当時より百枚ぐらい内容が増えているが、それは、「第三章 南京への道」を書き加えたのと、当時書きながら、頁数の都合などで割愛した部分を追加していったもので、本筋には筆を加えていない。また、数字の表記などで不統一な部分が随所にあると思うが、これも、書いている僕自身、こう書く方が自然で理解し易かったので、無理にそう書かして頂いたのである。

ある種の仕事を終えたとき、普通誰しも、なにがしかの安堵感と解放感に浸れるであろう。だが、僕の気持ちは今でも、書いているときと同じように、重く、暗い。この重さは、僕が日本人であることを、同じく人間であることを止めない限り、ずっと付き纏うような、そういう重さである。僕はその重さと戦おうと思う。しかしこれは所詮、絶対に勝つことのない戦いである。
この本は、たくさんの偶然と、数多くの友人、知人の協力で出来上がった。そのほとんどの方が名前の表記を希望されなかったので、ここではただ、心からの感謝の念だけを表明するだけに止めたい。最後に、執筆中、癌にその生命を奪われた友人津留達児に、本書を捧げたいと思う。

昭和四十七年十二月  鈴 木 明

-----

「「南京大虐殺」のまぼろし」 【目次】&カスタマーレビュー / 南知隊
http://mayuryou1025.blog76.fc2.com/blog-entry-497.html
スポンサーサイト

comment

Secret

プロフィール

南知隊!

Author:南知隊!
~南京の真実を知らせ隊~
略称『南知隊』
『南京大虐殺』と言う歴史歪曲による不当な冤罪を多くの人達にしってもらおう!
そんな想いを持った人々の集合ブログです。

最新記事
月別アーカイブ
カテゴリ
検索フォーム
南知隊ブロの中で検索したい事柄があった場合、↓の窓に語句を入力して「検索」ボタンを押すと、該当の記事が出ます。
通州事件の真実
RSSリンクの表示
リンク
ブロとも申請フォーム

この人とブロともになる

QRコード
QR
上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。