「「南京大虐殺」のまぼろし」文庫版のためのあとがき

2015.03.15.03:10

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「あとがき」にも書いたように、この作品の取材は、昭和四十七年一月十五日から始まった。 今にして思うと、歴史の歩みというものは、如何なる「もしも」も許されずに、大河の流れのように、着実に下流へと向かって流れていることを実感せずにはいられない。本多勝一氏が「中国の旅」を朝日新聞に連載を始めたのは、昭和四十六年八月末から十二月にかけてのことであった。この連載に、いわば挑発されるような形で、僕は「南京大虐殺」について取材を始めたわけである。それは誰に頼まれたわけでもなく、誰に協力を頼んだ訳でもなかった。確かに、当時、「諸君!」編集長をしていた田中健五氏と相談の時間は持ったが、当時僕は田中氏の顔をわずかに知っている、という程度のお付き合いであり、文筆とは全く別の世界にいた。 唯、「百人斬り」に素人っぽい疑いを持ち、暇だけはやたらに持っていたので、思いつくままの小文を田中氏のところに持ち込んだに過ぎなかった。

何回か、表現の稚拙な部分を指摘された後、この本の第一章である「《南京大虐殺》のまぼろし」は「諸君!」昭和四十七年四月号に掲載された。そしてその四月号が書店に並んでいるその最中に、第三十一回世界卓球選手権大会が名古屋で開かれ、「中国卓球選手団」が手に手に真っ赤な「毛語録」を振りかざしながら、羽田空港に降り立ったのである。僕はこの時も興味につられて名古屋まで出かけていったが、その警備の物々しさや、選手と日本人とを交流させない監視の厳しさは、異常という他はなかった。「友好第一、勝敗は第二」というスローガンとは裏腹に、中国選手団は歓迎パーティーにすら姿を見せなかった。大会運営費一億二千万円のうち、朝日新聞社だけが一千五百万円もの協力費を出していたのも異常であった。念のためにきいてみると、地元最大の企業であるトヨタ自動車ですら、協力費は百五十万円であるとのことであった。

この時に来日した最大のスターが荘則棟であったことも忘れられない。荘則棟は後に「江青の後押しによって成り上がった」と噂されて「四人組追放」とともにスポーツ英雄の座から滑り落ちるが、当時は「四人組」こそは中国の揺らぐことのない主流と考えられていた。「文化大革命」による経済発展はめざましく、昭和四十六年、つまり本多勝一氏が中国を訪れた年の中国における鉱業機械の成長率は、実に六二%であると発表されていた。

第二章である「向井少尉はなぜ殺されたか」がそれから四ヶ月経って、同じく「諸君!」に掲載されたとき、日本の政界では世人の予想を裏切って田中角栄内閣が誕生した。しかし、僕自身は田中内閣には何の関心もなかった。一度興味を持ち始めた「南京大虐殺」の取材に夢中で、佐藤栄作であろうと田中角栄であろうと、所詮は自民党内閣のやることに変わりがあるはずはない、と頭から決め込んでいた。それよりも「文化大革命」の最中にある中国の不可解な実体を、何の疑いもなく礼賛し続けている日本の多くのマスコミの姿の方に、僕は遙かに強い関心を持っていた。田中内閣の手によって、突如劇的な「日中国交回復」が行われたのは、田中内閣誕生からわずか二ヶ月あまり後のことである。三ヶ月前、「台湾との関係を守る」といっていた佐藤栄作を総裁とする自民党国会議員が、選挙の洗礼もなしにわずか二ヶ月で全く逆の決定に踏み切った裏に何があったのか今でも僕は知らない。しかし、いまふりかえってみれば、昭和四十六年の「中国の旅」から「ピンポン外交」へと進んだ歴史の流れは「田中内閣誕生」「日中国交回復」へと着実に歩を進めていたのであろう。そして「日中友好」は誰もが必要と思い、これと不可分の関係のものとして「南京大虐殺」は日本人に再認識されることになった。田中元首相は、このことを象徴するかのように、日中国交回復に当たって「過去において、日本が中国に行ったことについてお詫びをする」といった。

それからしばらく経って、台湾で「南京大虐殺」という本が発行された。その序文には「我々は中日戦争後、恨みに報ゆるに徳を以てする精神を貫いてきたが、今回田中政府の暴挙によって、三十年前の日本人の「獰猛」な面目が蘇ってきた。だから、敢えて三十年前の日本人の暴挙を再現するものである」と書かれていた。
この本の内容は、基本的には本多勝一氏の伝えた「中国の旅」における日本軍の存在と暴行事件と同じである。但し、この本には「南京裁判」における論告求刑の全文が掲載されている。僕は単行本となった「《南京大虐殺》のまぼろし」で、谷中将の申弁書、いわば被告の側からの弁護だけを紹介し、検察側の論告を掲載しなかった不公平を心の中で感じていたので、この論告求刑における「事実」と書かれた全文を、改めて詳しく読んでみた。
この全文をここでご紹介することにやぶさかではないが、歴史家が資料として残すならともかくとして、その直訳を改めて書き綴ることは余り意味はない。大要は、「東京裁判」で述べられたものと同一である。主文の中には、時として「十九万余」という漠然とした数字を使ったかと思うと、時には「石霸街五十号石筱軒が四つの木箱に古元二千件、木器四百件、衣服三十余箱を盗まれた(webmaster注・石霸街の霸はつちへんに霸、古元二千件の元は元を二つ並べたもの)」というように、突如具体的な名前が出てくる。谷寿夫の申弁書の中にある「殊更に・・・・・・不可能事なり」(138ページ11~12行)などの字句は、これら不統一な内容に対する抗弁の一端であったと思われる。

もう一つ、この「論告求刑」を読んで初めて気が付いたのは、谷寿夫を被告とする「南京大虐殺事件」において、日本軍士官の二人(向井、野田両少尉)の「殺人競技」が意外に大きく取り上げられていることである。出版された本には、昭和十二年の「毎日新聞」の写真が大きく掲げられ、「これは、日本軍が大量虐殺をした鉄の証拠である」と書かれている。既に拙著をお読みになった方はおわかりのように、向井、野田の両名は谷寿夫の部隊とは何の関係もなく、「殺人競技」は日本の一人の新聞記者によってのみ伝えられたものであって、中国人側からの被害届、ないし見聞の証人があったわけではない。 しかし、谷寿夫を銃殺するに当たって、二人の「殺人競技」は「南京大虐殺とワンセット」の中に納められていたことが、よくわかる。

日本軍は、中国に対して理不尽な理由で侵攻作戦を開始した。作戦が拡がり、兵站線がのびるに従って前線は混乱し、それに伴う略奪、暴行も増えていったであろう。特に南京作戦は、その作戦的背景、地理的条件から考えて、予期しなかったいろいろな出来事が起こったことは想像できる。 しかし、中国側の「論告求刑」では、「大虐殺」の背景などについて触れる部分は、全くなかった。日本軍は唯ひたすらに南京の全地域で暴行虐殺を行ったことがすさまじい形容詞で描かれ、特に「二人の士官による殺人競技」は、「南京大虐殺」に欠かすことの出来ない「明白な証拠」のある事件と認定された。これらの「虐殺」を「ほったらかして聞かないふりをし、部下に勝手なことをやらせた」からこそ、谷寿夫は「大虐殺」の主犯として南京雨花台で銃殺され、このことによって「大虐殺」もまた成立したのである。

昨年起こった「教科書問題」あるいは今年話題になった映画「東京裁判」などで、「南京大虐殺」は、再び世の注視を浴びることになった。ここは「教科書問題」を論ずる場ではないが、この時の中国側の主張として特徴づけられたことは、「侵略」と「大虐殺」とがワン・セットになっていることである。「侵略」という覆うべからざる事実を認める以上、「大虐殺」を認めることも、また同様であるという無言の押しつけが、この論旨の中には汲み取れる。 中国の教科書では、こう書いている。「日本侵略軍は至る所で焼き、殺し、奪い、残虐の限りを尽くしたため、無数の都市と農村が廃墟と化し、何千万、何百万の中国人民が殺された。日本軍は南京を占領した後、気違いじみた大虐殺を展開した。南京で平和に暮らしていた住民は射撃練習の的にされ、刃で切られ、石油で焼き殺され、生き埋めにされ、果ては心臓をえぐり取られるものもあった。一ヶ月余りの間に殺されたものは三十万を下らず、焼かれたり壊されたりした家屋は全市の三分の一に達した」このような教科書の表記の前で、多分、映画「東京裁判」の作者は、唯一箇所だけ、とても実写とは思えない「南京大虐殺」の場面を「中国側のフィルムである」という異例なクレジットを付けてまで挿入しなければならなかったのであろう。

今回、十一年前に書いた拙著が文庫本になるというので、あらためて口絵の写真を撮影した佐藤振寿氏にお会いし、ネガから新しく引き伸ばしをして頂いた。第一章の扉に掲載した写真は、南京陥落直後の十二月十三日から入城式の間、つまり「南京大虐殺」が行われたとされる最中に「難民区」で撮られたもので、大きく引き伸ばすと、少なくとも五十人の南京市民と六人の日本軍人がフレームの中に入っていることがわかる。 この中で、顔の表情が撮されている中国人は約二十五人、更に明らかに笑顔を浮かべているのは六人である。日本兵が、南京でどのような蛮行を行ったかの全貌は、今なお明らかではないが、この時、南京全市民を恐怖でひきつらせるような日本軍の暴行が、間断なく、随所で、恣意的に行われなかったことだけは間違いない。

十一年前、僕は全く、何気なく、偶然、「南京大虐殺」に飛び込んでいった。今思えば、それは「日中国交回復」という大きな政治的な動きの中に、突如舞い込んだとんでもない厄介者であったかも知れない。しかし、僕は政治の世界に全く無色であり、他に考慮する何者も無かったからこの仕事を続けたのである。 この仕事は、未完のままに終わっている。僕は歴史の専門家でもなく、法律家でもないから、これ以上「南京事件」を検証する力もないし義務もないが、「南京事件」は、昭和十二年十二月の事件であると同時に、昭和四十七年の、そして昭和五十七年、五十八年の事件であったこともまた事実であった。そしてなお、これは日本民族が生き続け、その歴史が残る限り問題となる試験である。

処女作というものは、読み返してみると誰もがある種の面映ゆいものを感じるであろう。 特にこの本は、テーマがテーマであるだけに各方面からの厳しい批判にさらされた。例えば、洞富雄氏は改めて「南京大虐殺―『まぼろし』化工作批判」という本を出版され、さまざまな点を指摘された。話は細かいが127ページにある小西さんの手紙を取り上げ、原文と不一致な点などもその例にあげた。確かに小西さんの手紙は原文と完全に同じではない。表現を読者に読み易いように部分的に書き直している。僕は学者ではないので、当時「原文」をどの程度に忠実に書かなければならないか、またニュース・ソースをどのように明示しなければならないか、というような配慮に欠けていた。しかし、原文の主旨を歪めるようなことは無論していない。

マギー神父の証言にしても、その曖昧性をもっと斬り込んでも良かったような気がするが、「神父」という肩書きの善意を考慮し、それもしなかった。

取材した人の証言、例えば元朝日新聞今井記者の言葉(228ページ)にしても、彼の話――その録音テープは、今も保存している――は実際には「手記」を書いた本人とはとうてい考えられないほど自分の書いた「手記」とは違う内容のものであった。氏自身、自分の書いた「手記」も所持していない、というのが事実であった。しかし、現に取材をさせて頂いた当人に対して、当時の心境としてはそのような露骨な表現は出来なかった。それが取材する側の心情としてやむを得ないものだと思っていた。その意味では、書くべきであるにもかかわらず、遠慮してしまった証言ないし資料は、今もなお僕の部屋に眠っている。

この際、出来れば、当時のテープを全部聴き直し、更に書き加えたい沢山の資料があったが、やはり、考えた末、それは行わなかった。これは昭和四十七年の書かれた一つのドキュメントとして読まれるべきだと考えたからである。だがそれにしても、「南京大虐殺」は僕の心の中で、誰に、ということではなく、歴史の重い流れに対して、今も割り切れないものを残していることを最後に付け加えさせて頂きたい。

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「「南京大虐殺」のまぼろし」 【目次】&カスタマーレビュー / 南知隊
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