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山本七平著「私の中の日本軍」

2015.03.15.04:54

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(裏表紙より) 「我々の世代には、戦争に従事したという罪責がある。しかしもし自らの体験を出来る限り正確に次代に伝えないならば、それは釈明の余地なきもう一つの罪責を重ねることになるであろう。」自己の軍隊体験を元に日本軍についての誤解や偏見をただし、様々な戦争伝説をものの見事に粉砕した名著。
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山本七平著『私の中の日本軍(下)』/「時代の論理」による殺人/291頁以降より抜粋引用。
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だがここで考えねばならぬ事は、当時こういう事をしていたのは浅海特派員だけではなかったという事実である。大本営も新聞社も、皆いわば大がかりな様々の「百人斬り競争」を報道して国民を欺いていた。私が最初に「一読して唖然とする事実」につきあたったといったのはその事である。

というのは「南京城総攻撃」「大激戦」「城頭高く日章旗」等々はすべて嘘で「南京入城」は実質的には「無戦闘入城」いわば「無血入城」であったという驚くべき事実を、自らそれと気づかずに鈴木特派員がのべているからである。

本多勝一氏の記す「十万の中国軍(国府軍)」が、二万の日本軍を恐れて戦わずして一斉に逃げ出したなどというのは全くばかげた話で、十万といえば約六個師団だが、本当に中国側に六個師団もの兵力があり…市街に拠点を設けて市街戦を行いつつ別働隊が背後を絶てば、逆に日本側が全滅してしまう。

実際は、日本軍が突入した時、中国軍はすでに撤退を完了して、例によってもぬけの殼だった筈である。私は前から「十二日正午突入」「十七日入城式」というスケジュールが非常に不思議であった。特に松井軍司令官が乗馬姿で入城式を行なったことは、何ともいえず奇妙に感じていた。

というのはこれくらい格好な標的はないからである。従って有能な狙撃手3名と…シュコダ製スナイパー付狙撃銃3挺があれば六百から八百の距離で「ダラスの熱い日」は確実に再現できる。妙な言い方だがこれは私にだってできるからである。更に潜入は「ジャッカルの日」よりもはるかに容易い筈である。

一方日本側にしてみれば、入城式に軍司令官が射殺されたとあっては大失態で、完全な面目失墜であり、第一、参謀長以下、大変な責任問題になる。さらに入城式は作戦行動ではないから、相手から強制されて、ダメとわかってもやらざるを得なかったということではない。

従って、危険をおかしてやる必要はないし、まして突入から五日目にやらねばならぬ必然性は全くない。「おめでたい日」を選ぶとすれば、もう二週間後に迫った一月一目などは、入城式祝賀をあわせ行うのに絶好の日のはずである。大体日本軍はいつもそういうやり方をやってきた。

「紀元節反攻」とか「天長節総攻撃」とかは、いわば「敵にすべてを予知される」まことにバカげたお家芸のようなものだから、ちょっとでも危険を察知すれば「一月一日入城式」という発想になるのがごく普通なのである。

従ってこの絶好の「名目」が目の前にあるのに十七日にやったということは、同日でも「絶対安全」という自信があったからにほかならない。いつこの自信を得たのか、もちろん十七日ではない。

先日会田雄次氏にお会いしたとき、「十七日に入城式を行う」と参謀長が決心したのは何日であろうか、が話題になった。敗残兵という言葉があるが、戦場の兵士はすべてドロドロでボロボロで、垢まみれ髭だらけであって、その風態はみな敗残兵そのままである。

これを威儀を正したパレード用になおすには、兵器手入・靴手入・被服補修等々を含めて、どれくらい時間がかかるかが問題になったが、結局、どんなに急いでもマルー日はどうしても必要である(会田氏は一日では無理と判定されたが)という結論になった。

戦場には灯火がないから――これがどういうことか、今の人にはちょっと実感としてはつかめないであろうが――ギリギリの線で十五日夜には、入城式に関する命令が発せられない限り、十七日の挙行は不可能である。

ということは十四日夜には参謀会議、司令官決断で、翌日にはパレード部隊の編成、城内警備用の配備計画、城外への奇襲防止のための配備等々、万遺漏なきよう計画を立案し、夕刻か夜には「命令受領者集合!」を各部隊に呼びかけねばならない。そして十五日配備完了、十六日準備となる筈である。

これを可能にするには、十三日にあらゆる情報を総合して、ほぼ大丈夫という予想が立てられねばならない。すると、十二日正午突入で十三日夜平穏ということになるわけだが、これでは戦闘する暇も虐殺する時間も死体を片づける時間もない筈なのである。

というのは城門を突破してから、城内の全域を無戦闘で掌握し、治安を確保するのだって、一日や二日はかかるのが普通だからである。しかも日本軍は、移動は二本の足である。大体、戦闘があったのなら、城内の一角にとりついてから、全市を掃討するのに一週間や十日かかるのがあたりまえである。

あの圧倒的火力をもつアメリカ軍が、マニラの一角に突入してから全市の日本軍を掃討するまで三週間かかっている。しかもマニラは、障壁となりうるような建物が非常に少ない町である。煉瓦の壁と土嚢で守ることが可能な南京とは全く違う町でもそれくらいかかる。

従って十二日正午突入、十七日入城式なら、これは戦闘がなかったものと考えねばならない――どう考えてもおかしな話だ、これが私の実感であった。

これに対して、会田氏は、当時の日本国内の厭戦気分は異常なほど…なので、ここで大本営は、大激戦、大殲滅戦、中国軍全滅、首都南京突入、入城式、講和、凱旋という一連の虚報による「演出」をスケジュールに組んでいたのではないか、という意見であった。

この会田氏の推測をピタリと裏づけるのが、鈴木特派員の「丸」の記事なのである。…だがその前に当時の状況の概略を記せば、十二月八日に蒋介石は南京を離れている。「首都を捨てて逃げた卑怯者」という見方は、いわば「都落ち」を没落と考える日本的な考え方であろう。

彼には一つの方針があったらしく「都市防衛」を真剣にやったことは一度もない。都市を死守して包囲殲滅される前に、なるべく多くの損害を相手に与えて撤退するという方針をとっている。

従って翌九日休戦、十、十一日両日の日本軍の攻撃で、日本側に大きな損害を与えたら、それで全軍を撤退さすつもりであったろう。この城外の戦闘で敗退した中国軍が、ことごとく南京へ流れ込んできたという想定はおそらく空想に近い。

撤退は相手の目標をはずすのが原則で、相手の攻撃目標へと撤退するような間の抜けた軍隊は世界のどの国にも存在せず、そんな軍隊が存在すると思っているのは、鈴木明氏も指摘している世にも奇妙なルポライターぐらいのものである。

包囲されたといっても、実際はどこにでも隙間はあるのであって、特に編成をといて便衣となれば、包囲網をすり抜けることは少しもむずかしくない、アメリカ軍とゲリラで完全に包囲され、住民は全部敵側というフィリピンのような状態ですら、現に私がスリ抜けて生きている。

まして有効射程が実際には三百メートルにすぎない単発の小銃が主力の日本軍の包囲網などは、会田氏の表現を借りれば、トイレットペーパーで石ころをまいているようなもので、どこからでもやぶって抜けられるのである。

ただそうなると組織としての軍隊は壊滅し、戦闘力はほとんど失うが、このことはその全員が死んだということではない。鈴木明氏が引用されているダーディンの記事は、当時の中国軍は五万と推定しているが、おそらくこれには、「網の目」からのすり抜けが計算に入っていないであろう。

だがこの「すり抜け数」は中国のように広大な土地では、実際にはつかめない。中国軍首脳でもつかめないであろう。これは敗戦時の兵力の実数を、比島の日本軍も、バターンのときのアメリカ軍も、全く掌握できていなかったことにも現われている。

従ってこういった数は全てあくまでも推定で大体「最大限に見積もっても」と見るべきである。…十、十一日の戦闘で中国側が日本軍により包囲の輪をひしひしとしめられ、南京城内へと押し込められた――と日本側は推定したかも知れないが――と思いきや実際は例によって「もぬけの殼」なのである。

従って十二月十二日正午、日本軍は″大激戦″のすえ光華門を突破すると、すぐその「昼さがり」に新聞記者がもう城内を散歩している訳である。…いま日本軍が城内に突入したというのに、そこを二人の新聞記者が…宿舎を探しながらぶらぶら歩いているのである。これが「前線」とは全く恐れいる。

大体「戦闘状態」とは、「社旗」などもって人間が立って歩ける状態ではない。平ぐものように地面にへばりつき、四方八方に気をくばり、はじめての人間は失禁状態になっても不思議ではないのが実情である。次に中国側の迫撃砲による砲撃だが、これは明らかに擾乱射撃である。

擾乱射撃は、やりもしたしやられもしたが、それは、その付近にはすでに友軍がいないことが前提で、いわば相当にあてずっぽうな無責任射撃である。歩兵への援護射撃では、到底こういういい加減なことはできない。

以上の二つのことは、城内のこの中心点にはすでに中国軍はおらず、また中国側は、いないことを前提として砲撃していることを示している。ということは、中国側は日本軍突入以前からすでに城内で戦闘する意思は全くなく、主力はすでに撤退を完了していたことを示していよう。

前略~ではこの城門まで迫る城外の戦闘は大激戦だったのであろうか。鈴木明氏が防衛庁戦史室で…調べた結果では十二月二日から十八日迄の戦死者数1117名、ダーディンの記述では「千人程度」とあるという。この数字は信用できる。これは到底「大激戦」といえる状態ではない。

ダーディンは中国側の損害を「三千~五千」と推定しているが、通常は攻撃側の損害の方が多いのが普通である。だがここに「南京戦の戦果」という上海軍による驚くべき発表が登場する。鈴木明氏の記述から引用させていただく。

《およそ戦史とよばれるものほど、嘘や誇張の多いものはないだろう。メーデーの参加者が、主催者側発表と警視庁調べとで数倍違うのが常識であることをみてもわかるとおり、自分の立場によって虚構の数字を作ることに、人間はさしたる罪悪感を抱かない。》

《例えば「南京戦の戦果」について、上海軍は昭和十二年十二月十八日(つまり、陥落の五日後)「敵の遺棄死体は八、九万を下らず、捕虜数千を算す」と発表し、更に一月「遺棄死体のみをもってするも八万四千の多きに達し、わが方の戦死八百、戦傷四千、敵の捕虜一万五百」と発表し直している》

結局、軍も新聞も「『百人斬り』は断固たる事実」的なことをやっていたのである。さて、この「遺棄死体のみをもってするも八万四千の多きに達し……」だが、人は何と解釈するか知らないが、私はこの余りのデタラメぶりに「こうやって国民をだましてきたのか」とただ吐息が出るだけである。

通常、戦死者の三倍の負傷者がいる。だが仮にこれを二倍としても、これでは、戦死・戦傷すなわち「戦闘能力喪失者」の総計は、二十五万二千人ということになる。軍隊は通常その半数を失うと戦闘能力を失う。

これを殲滅というわけだが、そうすると「南京戦」で中国軍五十万を殲滅したことになる。
何というバカげたことを。
この方面の中国軍は、最大限に見積もって五万しかいないのに。しかもその損害は多く見積もっても三千から五千(おそらくそれ以下だが)であることは中国側は知っている。

では、上海軍の発表した「遺棄死体八万四千」とはどういうことなのか。これを「事実」だというなら、このうち四千だけが戦闘員で、残りの八万は非戦闘員の虐殺死体だということにならざるをえない。

これが、言うまでもなく大本営的虚報であることの証明ははぶく。しかし、その言いわけは、世界のどこの国に対しても通用すまい。そして前にものべたように、浅海特派員にも大本営にもそして本多記者にもその発表は世界の耳に入るという意識がないのである。

南京大虐殺の”まぼろし”を打ちあげたのは、実は「百人斬り」について前章で述べたと同様に、われわれ日本人であって中国人ではない。

そして「日本の軍部の発表および新聞記事」を事実と認定すれば、それは必然的に「非戦闘員虐殺の自白」になるという図式でも、小は「百人斬り競争」より大は「大本営発表」まで、実は共通しているわけである。

すなわち、二人の処刑にも「南京大虐殺のまぼろし」にも全く同じ論理が働いているのであって、これがこの章の最初に「いかなる人間もその時代の一種の『論理』なるものから全く自由ではありえない」と記した理由である。


この論理の基本を提供したのはわれわれ日本人である。

従って、だれも怨むことはできないし、だれも非難することはできない。
自らの言葉が自らに返ってきただけである。

だがそこで「みんな、みんな、われわれが悪かった」式の反省、いわば「総懺悔」は全く意味をなさない。
それは逆にすべてを隠蔽してしまうだけである。
まして新しい大本営発表をしている当人が「反省」などという言葉を口にすれば滑稽である。

そうでなく、そうなった理由、そして未だにそうである理由を徹底的に究明し、その究明を通してそこから将来にむけて脱却する以外に、これを解決する道はあるまい。
自らの言葉が自らに返ってきて自分を打ち倒す、と感じた瞬間、人は打ちひしがれて立てなくなる。向井少尉にもそれが見られる。

しかし彼はそれを乗り越えて、上申書と遺書を残した。そしてその書き方の視点は非軍人的といえる。彼はやはり最終的には「幹部候補生」すなわち「市井の一人」だったと思われる。

そしてその精神状態は絶対に、「百人斬り競争」実施の主人公のものでもなければ、「百人斬り競争」や「殺人ゲーム」といった異常な虚報を得々と活字にできる記者のそれでもなかった、といえる。


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山本七平botまとめ/【「時代の論理」による殺人①】/「南京大虐殺」という”まぼろし”を打ち上げた背景
http://togetter.com/li/404853
山本七平botまとめ/【「時代の論理」による殺人②】/「南京大虐殺」という”まぼろし”を打ち上げた『われわれ』日本人
http://togetter.com/li/404854
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