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〈本多勝一「中国の旅」はなぜ取り消さない 阿羅健一〉(4)中国の歴史がデッチあげた日本軍の蛮行

2015.10.06.19:08

中国の歴史がデッチあげた日本軍の蛮行

ー平成2年9月、批判に対して本多勝一記者は本誌にこう書いた。「問題があるとすれば中国自体ではありませんか」

反論になっていないが、「中国の旅」が虚偽に満ちていたことをよく知っていたのである。それとともにこの記述は、なぜ「中国の旅」が虚偽だらけであるか解く鍵になる。つまり、中国人が語っていることは自分たちが行ってきたことをおうむ返しに語っているだけではないかと気づかせるからである。

ー李圭の「思痛記」という本が手元にある。李圭という人物は清朝の役人で、この本は1879(明治12)年に書かれた。

書かれる30年ほどまえの1850年、広西で長髪賊の乱が起こった。指導したのは洪秀全で、3年後には南京を落とし、支配した地域を太平天国と称した。当時は清の時代で、北京に首都があった。太平天国はその清と戦いを続け、1864年に敗れ滅びる。

著者の李圭は、南京郊外の豪族の家に生まれたが、1860年に長髪賊に捕まり、2年以上軟禁された。どうにか逃れて、やがて清朝の役人となる。役人になると、軟禁されていたころの体験をまとめた。


「思痛記」の中で李圭は周りで起こった悲惨な出来事を記述しているが、その数はおびただしく、日本人からは想像できないことばかりである。そして「中国の旅」で語られる日本軍の残虐な行動は「思痛記」にもしばしば見られる。そのいくつかを列挙する。

「日本兵が現れて、若い女性を見つけ次第連行していった。彼女たちはすべて強姦されたが、反抗して殺された者もかなりあったという」(「中国の旅」)
「美しい女は路傍の近くに連れこまれて淫を迫られた。必死に拒んで惨たらしい死に方をするのが十の六、七であった」(「思痛記」)

「川岸は水面が死体でおおわれ、長江の巨大な濁流さえも血で赤く染まった」(「中国の旅」)
「長柄の槍で争って突き刺されるか、鉄砲で撃たれるかして、百の一人も助からなかった。水はそのため真っ赤になった」(「思痛記」)

「強姦のあと腹を切り開いた写真。やはりそのあと局部に棒を突立てた写真」(「中国の旅」)
「女の死体が一つ仰向けになって転がっていた。全身に魚の鱗のような傷を受け、局部に矢が一本突き刺さっていた」(「思痛記」)

「日本軍は機関銃、小銃、手榴弾などを乱射した。(中略)大通りは、死体と血におおわれて地獄の道と化した」(「中国の旅」)
「刀がふりおろされるごとに一人又一人と死にゆき、頃刻にして数十の命が畢った。地はそのため赤くなった」(「思痛記」)

「水ぎわに死体がぎっしり漂着しているので、水をくむにはそれを踏みこえて行かねばならなかった」(「中国の旅」)
「河べりには見渡すかぎりおびただしい死体が流れ寄っていた」(「思痛記」)

「逮捕した青年たちの両手足首を針金で一つにしばり高圧線の電線にコウモリのように何人もぶらさげた。電気は停電している。こうしておいて下で火をたき、火あぶりにして殺した」(「中国の旅」)
「河べりに大きな木が百本ばかりあったが、その木の下にはみなそれぞれ一つか二つずつ死体があった。木の根元に搦手に縛りつけられ、肢体は黒焦げになって満足なところは一つもなかった。それらの木にしても、枝も葉もなかった。多分賊や官軍らは人をつかまえて財物をせびり、聞かれなかったために、人を木に縛って火を放ったものであろう」(「思痛記」)

「赤ん坊を抱いた母をみつけると、ひきずり出して、その場で強姦しようとした。母は末子を抱きしめて抵抗した。怒った日本兵は、赤ん坊を母親の手からむしりとると、その面前で地面に力いっぱいたたきつけた。末子は声も出ずに即死した。半狂乱になった母親が、わが子を地面から抱き上げようと腰をかがめた瞬間、日本兵は母をうしろから撃った」(「中国の旅」)
「(賊の頭目の一人汪は)夫人と女の子を家に送り帰してやるといった。嘘とは知らないものだから婦人は非常に喜び、娘を先に立てて歩かせ、自分はそのあとにつづいた。汪は刀を引っ下げてついていったが、数十歩も歩いたか歩かぬに、いきなり後ろから婦人の頸部をめがけて、えいとばかりに斬りつけた。夫人はぶっ倒れて『命だけは』と哀願した。が、またもや一刀、首はころりと落ちた。汪はその首を女の子の肩に乗せて、背負って帰れといった。女の子は力およばず、地に倒れた。汪はこれを抱えおこし、刀をふりあげて女の子の顋門めがけて力まかせに斬りつけると、立ちどころに死んだ」(「思痛記」)

「『永利亜化学工場』では、日本軍の強制連行に反対した労働者が、その場で腹をたち割られ、心臓と肝臓を抜きとられた。日本兵はあとで煮て食ったという」(「中国の旅」)
「蕎(賊の頭目の一人)はひどく腹を立て立ちどころに2人を殺し、さらにその肝をえぐり取って、それをさっきの同伴者に命じて鍋の中に捧げ入れさせ、油で揚げて煮た上で一同に食べさせた」(「思痛記」)

このように「中国の旅」で語られているのは日本人に想像もつかないことであるが、これと似たことが「思痛記」にはあり、中国人にとっては当たり前のこととして記述されている。最後に挙げた食人肉の話は、魯迅の出世作「狂人日記」にもある。「狂人日記」は、中国では四千年のあいだ人を食ってきた、妹が死んだとき母が泣きやまなかったのは兄貴が妹を食べたからではないか、と書く。

中国人の語ることが日本の常識や歴史から説明がつかないことと、それが中国では当たり前のように起きていることを考えると、日本軍が南京で行ったと語られた蛮行は、中国人が歴史的に繰り返して行ってきたことであり、日本人も同じことを行ったに違いないと彼らが思い込んだからなのだ。


本多勝一「中国の旅」はなぜ取り消さない『月刊正論』 2014年10月号 阿羅健一(近現代史研究家)
http://ironna.jp/article/769
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