GHQ焚書図書開封(25)「征野千里」16:杭州湾の敵前上陸2

2016.05.05.14:25

写真は塹壕を越えていざ突撃へ
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 大きな鉄橋が見えていた。鉄橋の遥か彼方には、地平線に瘤が出来たようにたった一つ山が浮き上がって、その上に塔が立っているのが雨に霞んでみられた。杭州湾に上ってただひた走りの一直線。この大追撃の終点たる崑山があれに見えて来たという。
 第一線部隊を承った私たちの○隊は急に勢いづいて来た。長い激しかった行軍の一切の苦しさを忘れてしまってみんなはしゃいだ。いま一と息、と疲れた足に元気をつけて更に前進にかかったとたん、前方の鉄橋付近からダダダダダ、と重機関銃を射って来た。すぐ部隊は広い軍用道路から畑の中に展開した。畑には満々と水が溢れていた。水は泥と一緒に私たちの腰をひたした。冷たい雨がシトシトと鉄兜を打った。散開して一気に水の中を岸近くまで突撃すると鉄橋は轟然たる音をあげて真中付近から空に吹きあがった。鉄骨の梁がピューンという唸りと一緒に私たちの近くに飛んで来た。あとには四本の橋桁だけが残っている。この残った橋桁を伝って三人の敵が走って来た。敵は橋の真中まで来ると石油を撒いてこれに火をつけた。一斉に友軍の機銃がこの三人に向って鳴った。二人がコロッ、コロッと転がって河の中へもんどり打って落ちた。残る一人は猿のように橋桁を走って対岸の壕へ飛び込んだ。

 橋桁は炎々と燃え上がる。私たちは一斉に畑から飛び出して橋に迫った。四方から飛び出してきた私たちは、橋のところで一本の道に集ってしまう。対岸の重機はこの一点を狙って弾幕を張った。橋の前へ躍り出して、次々と折り重なって戦友が倒れてゆく。
 コンクリートの橋脚の上に幅五寸ほどの木が四本渡して橋桁ができていた。石油はこの四本の木の上を流れて焔は煙と一緒に橋桁を四筋に走っていた。橋桁は泥靴の下でスルッスルッと滑った。
 私の前を走っていた戦友がガクンと左脚を折曲げたと思うと半身が斜めに傾いてハッと思ううちに鉄橋から落ちていった。下を向いて一気に走る私の目に、橋桁の間から河を流れる戦友の顔がハッキリ見えた。一瞬の映像だった。顔が火で熱かった。眉毛がジリジリと燃えたのをハッキリ意識した。隣を走るのは誰か、前で倒れたのは誰か、全然わからない。燃える橋桁を走って対岸に一歩踏み込もうとするところに、敵か味方かわからぬ死体が土嚢陣を築いたように折り重なっていた。この死体の山を踏み越えて目の前の壕に飛び込んだ。壕に入るとどうしてもこれ以上一歩も出られなかった。「嬶、嬶!」と呼ばれる。私は壕を這って行って荒木准尉に飛びついた。


「よかった。怪我はなかったか。よかったよかった」といって荒木准尉が私を抱かれた。ただ涙が溢れてきた。荒木准尉の真黒な泥と煙にすすけた顔にも涙が走って、地肌の筋がいくつかできていた。荒木准尉は私を抱きながら私の耳に口をよせられた。
「児玉が・・・児玉少尉が死なれたぞ」「アッ、教官殿・・・」というと、荒木准尉は私の口を押えて「云ってはいかん!」といわれた。そしてまた耳に口をつけて
「ここで部隊の士気を阻喪したら○隊の名誉はどうする・・・」
と泣くようにいわれた。
 橋桁が燃えて背を照りつける。壕の中の水は腹までしみ込んだ。陽が落ちて、ただ橋の火が真赤だった。
 壕の中に首を縮めて入っていると弾は頭上五寸ほどのところをピューンピューンと飛んで行った。迫撃砲弾がひっきりなしに飛んできた。橋の袂の死体に命中した砲弾は、ドロドロの肉片を四方に飛ばして、私たちの頬にピシャリと叩きつけた。右からも左からも、闇の中から
「小林伍長! 小林!」と呼ぶ声がする。その度に「オー!」という小林伍長の元気な声が聞えた。・・・

 私たちは殆ど弾も射たず壕の中にじ―とひそみ続けていた。私の横に死体がある。真先に燃える鉄橋を渡った石川伍長の冷たい体だった。私は水の中でこの冷たい死体を抱きつづけた。隣の戦友の横にも死体がある。その向うにも・・・石川伍長が指揮する隊の戦友が一人残らず冷たい死体となってこの壕の中にあった。戦友の骸を抱いて水の中に一夜を明かすとは何時私が想像したろう。お互に命は投げ出して、そして一瞬後には何が起きるかわからない戦場がなんであるかを知っている。にもかかわらず、この一瞬の変転は私に感情を整理する道を失わせてしまった。
 水の壕にじいっと入っているととても眠くなる。水の中へ顔を突っ込んで眠ってしまう。「眠っちァいかん!」と荒木准尉は狂気のように叫びつづけられた。ハッとして目を開く。そしてまた銃を両手に持って首がだんだん下って行く。ジャボンと水に額が落ち込んでもそのまま眠った。
「谷口! 松田! 今村!」と荒木准尉が眠る部下たちの名を呼びつづけられる。ハッと目を開くと目の前を真赤な曳火弾が燃えて飛び、背後にボソボソと橋が燃えていた。「今村! 今村! 眠るなツ」と幾度も呼ばれる。今村上等兵は依然水から顔をあげない。「オイッ!」といって私が今村上等兵の肩を力一杯殴りつけると、今村上等兵は姿勢を崩して水の中へ転がってしまった。驚いて水から抱き上げると、今村上等兵の体は冷たかった。私の手に血が流れ伝ってきた。背嚢を背に、銃を両手に杖のように握って、眠った姿のままで立派に今村上等兵は戦死していた。

戦場手記「征野千里」中野部隊上等兵谷口勝著(昭和十三年十二月新潮社発行)より
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