東中野修道氏著〈南京大虐殺は存在せず1 米国人特派員は目撃していなかった〉

2016.05.11.14:25

新地球日本史147 南京大虐殺は存在せず1 世界を駆けめぐった米紙の特ダネ 平成17年1月3日産経新聞より



一九三七(昭和十二)年十二月十三日に、南京が陥落した。当時の日本の新聞をみると城門の上で万歳をする日本軍将兵の写真や日本国内の提灯行列が特集されている。


ところがアメリカでは次の新聞記事が出ていた。南京陥落から三日後のこと、十二月十五日(日本時間十六日)の『シカゴ・デイリーニューズ』は、「南京大虐殺物語」というトップ記事で、「南京陥落の物語は、落とし穴に落ちた中国軍の言語に絶する混乱とパニックと、その後の征服軍による恐怖の支配の物語である。何千人もの生命が犠牲となったが、多くは罪のない人たちであった。・・以上の記述は包囲中の南京に残った私自身や他の外国人の観察に基づく」と伝えていた。

 

つづいて十八日の『ニューヨーク・タイムズ』も、『南京屠殺が陥落の特徴』という見出しで、「頻発する殺人、大規模な略奪、婦女暴行、市民殺害・・南京は恐怖の町と化した。・・恐れや恐怖から走る者は誰もが即座に殺されたようだ。多くの殺人が外国人たちに目撃された」と報じた。

 

私たちは、城門が陥落するや城内に雪崩れこんだ日本軍が「殺人放火意のまま」に市民や捕虜を殺しまくったと思うであろう。これは世に出た最初の「南京大虐殺」であった。陥落前から南京にいて十五日に南京を離れたアメリカ人特派員のスティールやダーディンが打電したスクープ(特ダネ)であった。彼らは「外国人の目撃」を根拠として陥落三日間の南京を報じたことになる。このスクープは、たちまち世界を駆けめぐったようだ。


特ダネを求めて南京を走り回っていた二百人近くの日本の従軍記者や従軍カメラマンのなかにも、これを耳にした人がいた。 東大仏文科を出て間もなく南京戦に従軍した同盟通信の前田雄二は戦後、『戦争の流れの中に』(昭和五十七年)のなかで、「占領後、難民区内で大規模な略奪、暴行、放火があったという外電が流れた。・・私たちは顔を見合わせた。市内をマメにまわっている写真や映画の誰一人、治安回復後の暴虐については知らなかった。・・無法行為があったとすれば、ひとり同盟だけではない、各社百名の報道陣の耳目に入らぬはずはなかった」と回想している。

 

南京戦に従軍した大阪朝日新聞の山本治も、南京大虐殺について、「全然見たことも聞いたこともありません。・・夜は皆集りますが・・朝日新聞では話題になったこともありません」と言う。 そして、昭和十三年夏に大陸から帰国するや、「神戸のホテルで、南京では日本軍が暴行を働いたそうですね、と言われてびっくりしました。なんでも外字新聞には出ていたということです」と回想する。

 

どちらが正しいのであろうか。二人のアメリカ人特派員は十五日に南京を離れているので十三、十四の二日間と、十五日に離れるまでの陥落三日間の南京の様子を、外国人の「観察」と「目撃」に基づいて報じたことになる。

 

そこで、南京陥落後の最初の二ヶ月間の事件を完璧にとり揃えているという『南京安全地帯の記録』を見てみよう。これは一九三八(昭和十三)年二月にスマイス南京大学教授の手で一冊にまとめられた「市民重大被害報告」が、一九三九年に徐淑希編として公刊されたものである。問題の三日間を見てみると、十三日は婦女暴行と掠奪が三件、十四日は殺人一件、婦女暴行四件、手袋や万年筆や時計の掠奪が三件である。しかし誰が目撃したかは明記されていなかった。二人の特派員が南京を離れるまでの殺人は出所不明の数件だったのである。陥落から三日間、明確な市民殺害の目撃は一件もなかったことになる。

 

アメリカの特派員の言う「私自身や他の外国人の目撃」になる「頻発する殺人・・市民殺害」とは、いったい何だったのであろうか。


つづく(亜細亜大学教授 東中野修道)

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