東中野修道氏著〈南京大虐殺は存在せず2 米国人特派員は目撃していなかった〉

2016.05.11.14:34

新地球日本史148 南京大虐殺は存在せず2 米国人特派員は目撃していなかった 平成17年1月4日産経新聞 より


アメリカ人特派員のスティールやダーディン、そして他の外国人が虐殺を目撃したという陥落前後の南京を見ておこう。

 

陥落五日前、南京防衛軍司令官は全市民に安全地帯に避難するよう命令を出した。

国際委員会の第九号文書が記すように、事実上全市民が城内の安全地帯に避難した。

 

ところが南京戦では、日本軍の予想だにしない事態が発生する。日本軍の降伏勧告を拒否して徹底抗戦を豪語していた司令官の唐生智が、陥落直前の十二月十二日午後八時、いまだ激戦の続くなか、降伏声明もせずに敵前逃亡した。巨大な城壁と城門で囲まれた城内にとり残された中国兵は、城外に脱出するか、市民のための避難地帯である安全地帯に侵入するよりほかなかった。陥落直前とあって、ほとんどの中国兵は安全地帯に殺到し、兵士と市民の渾然一体となった安全地帯は大混乱に陥った。その安全地帯に欧米人も残留していた。

 

中国軍の降伏が表明されない大混乱のなか、十三日未明に、城門が陥落する。しかし城外では激戦がつづいていた。脱出する中国軍に猛撃されて、日本軍も死傷者を出していた。

 

十四、十五、十六の三日間、日本軍は城内外で「残敵ヲ掃蕩シ以テ南京城占領ヲ確実ナラシメントス」るため掃蕩に出る。掃蕩とは治安回復のために残敵を追い払う、どの戦場でも、今でも不可欠な軍事行動である。掃蕩で困難を極めたのが安全地帯であった。軍服を脱ぎ捨てて市民になりすました中国兵が市民の中に紛れ込んでおり、撤去されていない中国軍の軍事施設があり、武器を隠し持って反撃してくる兵士もいたからだ。安全地帯で中国兵が蜂起すれば、交戦が始まる。市民も巻き込まれ、日本軍の安全も脅かされる。日本軍は第七連隊のみに安全地帯の掃蕩を命じ、中国兵を摘発し、「抵抗の気配」のある者を揚子江岸で処刑した。しかし多くは苦力(くーりー)(労働者)として使った。翌年二月末現在で苦力は延べ一万人に達している。

 

このような状況のなか、「頻発する殺人・・・市民殺害」は誰も目撃していなかったという事実に立って、アメリカ人特派員が確かに目撃したことを整理すると、次のようになる。一つは陥落前後の大混乱とパニックであった。二つ目は「死体」であった。三つ目は揚子江岸の「処刑」であった。彼らは以上の三点をもとに描いたとしか考えられない。

 

たとえばダーディンは「日本軍の下関門の占領は防衛軍兵士の集団殺戮を伴った。死骸は高さ六フィートの小山を築いていた」と書いて、死体を「集団殺戮」の証拠とした。 しかし彼が五十年後に回想するように、これは城内の中国兵が唯一の脱出路挹江門に殺到して圧死したか、友軍の督戦隊が逃亡する中国兵を射殺してできた死体であった。

 

スティールは南京を離れる直前に、「河岸近くの城壁を背にして三百人の中国人の一群を整然と処刑している光景」を目撃したと書いて、中国兵の処刑を中国人の処刑と書いた。 ところが彼も同じく五十年後に、「中国人が虐殺される場面を見ましたか」と問われたとき、「はい。大勢の兵隊が銃殺されるのを見ました。整然と秩序だって銃殺されていました」と答えて、正確に「兵隊」と認めている。彼は中国兵処刑を大虐殺とみなしたのである。

 

ダーディンも「南京にとどまっていた三日間」の印象を問われて、虐殺というなら女性や子供が殺されるのを見聞したという衝撃的な体験を語るべきところ、安全地帯は「難民でごったがえしていた」が、平和であり、「食料はたくさんあるようだった」と答えている。


つまりアメリカ人特派員は、「頻発する殺人・・・市民殺害」を目撃していなかった。そのことは、第一回に述べた目撃証言の明らかな市民殺害は皆無という「市民重大被害報告」の記録や日本軍従軍記者たちの回想とも一致するアメリカ人特派員は、横たわっている死体と日本軍の処刑を南京大虐殺の根拠としていたようだ


つづく(亜細亜大学教授 東中野修道)

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