南京大虐殺紀念館の建設要請をした田邊誠(1)昭和60年8月社会党田邊誠書記長団支那訪問

2016.05.18.13:52

南京大虐殺紀念館の建設要請をした、社会党元議員・田邊誠が昨年(平成27年)亡くなりました。
田邊誠とは何者だったのか、記事から検索します。

国対政治のドン田辺誠死去 語られざる金丸訪朝団の謎 週刊文春WEB2015.7.9
http://shukan.bunshun.jp/articles/-/5253
7月2日、旧社会党の委員長を務めた田辺誠氏が93歳で死去した。自民党の金丸信元副総裁と太いパイプを持つ「国対政治のドン」として知られ、一時代を築いた。 田辺氏は、群馬県出身。組合活動を経て、国会議員となり、右派のリーダーとして書記長、委員長を歴任する。

いまだに謎が多い「金丸訪朝団」に関しては、田辺氏しか知り得ない秘密もあった。1990年9月、金丸氏と田辺氏が両党の国会議員らを引き連れて北朝鮮を訪問。当時は北朝鮮による日本人の拉致事件の認知度は低く、世論は北朝鮮との国交回復に期待し、両氏は喝采を浴びた。実は、訪朝団は田辺氏の「お膳立て」で実現した自社両党の一大プロジェクトだった。田辺氏は1983年の党書記長就任後、党のお家芸である対北外交に力を注ぐが、北朝鮮側が万年野党の社会党よりも自民党との関係を重視し始めた。そこで、野党の限界を知る田辺氏は、国対政治のパートナーの金丸氏に訪朝を打診したのだ。金丸氏は当初、国交のない北朝鮮行きを渋るが、田辺氏が懸命に説得したという。

金丸・田辺ラインはその後も機能した。半ば伝説となっているのが、1992年のPKO国会だ。PKO協力法案を巡り、与野党の対立が激化。自民党にスキャンダルも噴出し、予算成立が見通せない混乱状況に陥った。当時の宮沢喜一首相の懇請により副総裁に就任した金丸氏は、子飼いの梶山静六氏を国対委員長に指名する。梶山国対となると、予算は無事に成立。PKO協力法も修正を経て、成立したのだ。

1996年に政界を引退し、地元の群馬県前橋市内で老人福祉施設の運営に専念した。昨年夏に面会した関係者によると、杖を使って自力で階段を上るほど元気だったという。

故田邊誠は社会党、自民党系に近かったということで右派寄りではありますが、国会運営や議員活動を有利にするために立ち回る面があるようです。

これだけでは、故田邊誠と中共の関係が見えて来ません。
コピペを辿って過去の産経ニュースの一文を追記します。

ー【引用】ここからー
(前半略)
昭和50(1975)年。 首相の三木武夫が8月15日に参拝したが、そのとき記者団がくだらない質問をした。例の「公人としてか? それとも私人としてか?」である。これに対して三木は馬鹿げたことに「私人として」と答えた。その後も首相の参拝が問題になることはなかったが、これをきっかけに天皇の靖国御親拝ができなくなるという大きな禍根を残した。この時以降、しばらく政教分離が問題となる。

昭和53(1978)年。靖国神社は「A級戦犯」とされた人々14柱を合祀したこれに反発したのは日本の左翼だけで合祀の後も大平正芳が3回、鈴木善幸が8回、中曽根康弘が9回参拝した外国で騒ぐ国など皆無だった

昭和60(1985)年朝日新聞は常道を逸した「反・靖国キャンペーン」を展開し、「戦前回帰」「軍国主義」といったヒステリックな記述が朝日新聞に連日登場したその中で「(靖国問題に)中国は厳しい視線で凝視している」と馬鹿なことを書いたのが、加藤千洋である朝日新聞お得意のご注進記事である

その年の8月26日には社民党書記長の田辺誠を団長とする社会党の支那訪問団が北京入りし支那首脳に対し「中曽根内閣が軍事大国を目指す危険な動きを強めている」とくだらないことを述べ、翌8月27日、支那の副首相が中曽根の靖国神社公式参拝を非難したこの時が支那の最初の非難である
ー【引用】ここまでー

靖国問題に火を付けたのはが朝日の加藤千洋であれば、これに乗じて靖国問題を中共に嗾けたのが故田邊誠です。
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