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ティルマン・ダーティン〈南京事件を世界に知らせた男〉

2012.09.12.12:13

南京事件を世界に知らせた男
自分の目で大量虐殺を見た米人記者の回顧談

元ニューヨーク・タイムズ記者、ティルマン・ダーティン氏

古森義久(ジャーナリスト)(文藝春秋89.10から)

 ラホーヤはカリフォルニア州の軍港都市サンディエゴから北へ、車で30分足らずの美しい海岸の町である。
 太平洋を眺望するすばらしい景観に加えて、1年を通じての温暖な気候のために全米でも有数の保養地になっている。
 ティルマン・ダーティン氏のこじんまりとしたアパートは、そのラホーヤの町を貫く大通りからほんの少しだけはずれた一角にあった。
 からりと乾いた快適な風が吹きぬけるので真夏の太陽も苦にならない。
 そこここの家やアパートに付属するプールが明るい日差しをあび、キラキラと光る。
 ダーティン氏のアパートは地味な3階建のビルの2階にあった。
 ベルを鳴らすとすぐにドアが開き、思ったより小柄な老人が立っていた。
 
 ティルマン・ダーティン――1937年(昭和12)年12月、ニューヨーク・タイムズの若手記者として日本軍の南京占領の模様を一部始終目撃し、「南京虐殺」の第一報を全世界に向けて伝えたジャーナリストである。
 彼は南京の陥落時に現地にいた欧米のわずか5人の報道陣のうちの1人、貴重な歴史の目撃者となった。
 南京をめぐる日中両軍の攻防から日本軍の占領後に市内で起きたことまでを、シカゴ・デイリー・ニュースのアーチボルド・スティール記者とともに世界に向けて最初に報道したのだった。
 ダーティン記者の南京陥落後の報道は、ニューヨーク・タイムズ1937年12月18日付けと38年1月9日付にそれぞれ掲載された。
 これらの記事はのちに南京事件についてのどの報告でも書物でも必ず引用されたり、言及されたりしている。とくに中国側が後日、主張するような大虐殺が南京で実際にあったか否かという議論では、どちらの立場をとる側もダーティン報道を貴重な資料として欠かさずに使っていた。その点でダーティン氏は、南京事件解明のカギをも握る歴史の証人とされてきた。日本の戦前の昭和史全体を通じても、同氏は一種の“伝説の人物”扱いをされてきたのだった。
 私はその彼が高齢ながらもなお健在であることを最近、知った。住所と電話番号を探し当て、さっそく電話で会見を申し込むと、歯切れの良い「イエス」という答えが返って来たのだった。
 気難しい人物だというウワサを聞いていたものの、紹介者の名をすぐあげたことがよかったためか、電話ではきげんよく応答してくれた。
 中国の仏像や絵画がぎっしりと飾られた居間で向かい合って座ったダーティン氏は、81歳という年齢にもかかわらず、きわめて元気そうにみえた。それになによりも話しの口調がしっかりし、語る内容も明確で、老いをほとんど感じさせなかった。
 とはいえ、もう51年以上も前の出来事をくわしく語って欲しいというこちらの注文である。ダーティン記者自身の書いた記事のみならず、当時の競争相手だったスティール記者の記事のコピーまでを、目の前に並べての回想談となった。
 私はまず若きダーティン氏が南京に駐在するにいたった経緯についてからインタビューを始めた。
 
 ――ニューヨーク・タイムズの中国特派員にはどうしてなったのですか?
 
 「テキサス州西部で生まれ、同じ州内のフォートワースの大学を卒業したあとサンアントニオとヒューストンの新聞でそれぞれ短期間、記者として働きました。だが世界をみたいと思った。とはいえカネがない。友人といっしょに貨物船に乗りこんで働き、旅をすることに決めました。1930年のことでした。」
 23歳のダーティン氏は船内の掃除係となって船底で眠りながらパナマ運河を抜け、太平洋を渡る。
 日本の横浜港に着くと英字新聞『ジャパン・アドバタイザー』に働き口あることを知った。友人とコインを投げて決めた結果、友人がその職を得る。
 船は日本から中国へと航行し、上海に入港した。

南京占領の3ヶ月前から

 「そのころには船内での肉体労働にすっかり嫌気がさして、とにかく上海で陸にあがることに決めました。当時はパスポートもビザもありはしない。そしてすぐに上海の英字新聞『シャンハイ・イブニング・ポスト』に記者としての職を得ました。
 そこで2、3年働いたあと『チャイナ・プレス』という新聞に移り、やがて編集長となったのだけれども、その間、ニューヨーク・タイムズにもストリンガー(通信員)としてときどき記事を書くようになりました。
 正規の上海特派員がポストをあけるときに私がカバーしたのです。そのうち1937年の夏となり、日中戦争が起きて、ニューヨーク・タイムズは正規の特派員がもう一人、緊急に必要となり、私が採用されたわけです。
 
 ――その年の8月に日本軍が上海周辺で中国軍に対する総攻撃を始めたわけですね。
 
 「ええ、それで私はすぐ先輩のジャック・ベルドン記者と車に乗り、上海からずっと南に下り、杭州や南京方面へと道路が分かれる分岐地域まで出かけて、戦闘の模様を取材しました。その後、間もなく私は南京の拠点にして日中戦争を報道するようになったのです。日本軍が南京を占領したのは1937年12月ですから、その3ヶ月ほど前から南京にいたことになります。」
 
 ダーティン氏のこのへんの記憶はきわめてしっかりしているようだ。
 くすんだ青い目のジャンパーを着て、くつろいだ姿勢ながらも、きちんとよどみないペースで話をすすめていく。
 さて、1937年11月、上海周辺の中国軍戦線を突破した日本軍は、西北3百キロほどの首都、南京をめざして急スピードの進撃を開始した。
 ダーティン記者は南京の側からその経緯を追っていた。
 
 ――上海方面から進撃してきた日本軍と中国軍の南京以東での戦闘ぶりはどうだったのでしょうか。
 
 「中国軍は南京城内に立てこもって日本軍を撃退するという作戦をとり、上海方面から南京への日本軍進路にあるすべての建造物を焼き払って退却しました。敵には何ひとつ残さないという、中国側が焦土作戦とよぶ手段です。住宅からその他の建物まで、いっさいすべて、遮蔽物を残さないために樹木まで切り倒して撤退するのです。」
 
 ――そういう地域の住民はどうなったのですか。
 
 「大多数は戦闘の始まる前に避難しました。南京の方向へと逃れ、市内に入った避難民もかなりいました。漢口のほうにまで逃げていった民間人もかなり多数いました」
 
 ――上海から南京近郊に到達するまでの過程で日本軍が中国側の捕虜や民間人を多数殺したという話しは当時あったのですか。
 
 「いや、それはありませんでした。中国軍は日本軍に正面から戦いを挑まず、撤退していたし、地元の住民もみな避難していたからでしょう。
 私は当時、虐殺に類することはなにも目撃しなかったし、聞いたこともありません。虐殺は日本軍が南京を占領してからなのです」
 
 ダーティン氏のこの言葉は「上海から南京までの間で日本軍による大規模な殺害や略奪があった」という一部の説とはくいちがっている。
 しかし同氏は南京では日本軍の虐殺があったと明言する。その点は同氏は南京陥落についての第一報、ニューヨーク・タイムズ1937年12月18日付の記事にもはっきりと書いている。
 「南京で日本軍が恐怖をまき散らすなかで民間人も殺される」という見出しのこの記事は、「日本軍の無差別残虐行為と略奪」があったとし、「中国軍捕虜の大量処刑」と「女性や子供を含めての民間人の広範な殺害」とを伝えている。

処刑を見ていた将兵たち

 ――さてまず中国軍の捕虜に関してですが、南京を守っていた軍隊の人数はそもそもどのくらいだったのでしょうか。
 
 「唐生智将軍の指揮下に約5万人だったと思います。
 日本軍の南京総攻撃が始まる直前、私は市内をあちこち走りまわって防衛軍の状況を調べました。
 市内には軍隊があふれていた。唐生智司令官にインタビューして「城壁内にこれだけの部隊を入れて守る作戦はわかったが、日本軍は当然、城壁を包囲するから、もし負けた場合にはどうやって撤退するのか」と質問したのものです。
 唐将軍は「われわれは死ぬまで戦う決意だ。撤退は天に向かってのルートだけだ」と豪語していました。
 しかし実際には将軍は日本軍の一部が城壁を越えてすぐ、部下には何も告げず、市外へと逃げたわけです。」
 
 ダーティン記者は1938年1月9日付の記事でも中国の南京防衛について、合計16個師団だが、1師団の兵力は2千から3千人程度に減っているので総計約5万人と推定している。
 同記者にはその同じ記事のなかで、中国軍の死者数について日本軍が南京への本格的攻撃を開始した12月上旬から市内を占領して3日目の12月15日までに3万3千人が死んだと伝え、そのうちの2万人が処刑されたとみられる、と報道している。
 
 ――捕虜の処刑は実際に目撃しましたか。
 
 「はい。私が南京を去ることになる12月15日にも城門のすぐ外の揚子江の水ぎわで日本軍が機関銃で中国軍の捕虜を射殺しているのを見ました。
 捕虜たちは50人くらいずつにまとめられ、並べられて射殺されるのです。
 そのあとにすぐまた50人ほどの次のグループが引き出され、機関銃の連射で殺されるのです。この処刑が進行している間に別の日本軍の将兵が近くにたむろしてタバコを喫ったり、大声で話し合っていた光景をいまでもよく覚えています」
 
 ――中国の捕虜の側は抵抗とか逃走をまったく試みなかったのですか。
 
 「その捕虜たちが両手を縛られていたかどうかはもう覚えていませんが、さからっても無駄なことは明白でした。
 中国軍は司令官が逃げて、指揮系統が混乱してしまったこともあって、日本軍が城内に入ってからはすぐ抵抗をやめ降伏するか、軍服を脱ぎすてて民間人の群にまぎれこむかでした。
 とても無気力だったのです。軍服を脱いだ軍人達の多くは『安全地区』に逃げ込みました」
 
 『安全地区』(セーフティーゾーン)というのは、外国人の宣教師や教師、医師が中心になってつくった民間人のための避難地域である。
 この地区を管理する委員会では日中両軍にその安全区の尊重を呼びかけていた。
 
 ――『安全地区』には何人くらいが集まっていたのでしょうか。
 
 「私の当時の推定では約10万人だったと思います。
 しかしここにも日本軍が入ってきました。中国兵が多数まぎれこんで民間人を装っていたことが原因だといえばいえます。
 そのために日本軍に『安全地区』に入って捜査をする口実を与えてしまった。
 兵隊ならば衣類を脱ぐと、銃や背嚢(はいのう)をかついでいた跡が半分タコのようになって体に残っているのがわかるとというのです。
 若い中国の男たちはみな日本軍に調べられ、兵士だと断定されると『安全地区』内でも殺されるというケースがよくありました。
 ただ日本軍も外部からいきなり『安全地区』に攻撃をかけるようなことはしなかった。
 市内の他地域での流血にくらべれば、まるでたいしたことはありませんでした。」
 
 ダーティン記者は、南京市内での日本軍による民間人の無差別殺害をも、当時、くわしく報道していた。
 
 「12月15日に南京市内を広範にみてまわった外国人たちは、民間人の死体があちこちにあるのを目撃した。犠牲者のなかには老人や子供もいた。警官や消防夫がとくに攻撃の標的となった」(1937年12月18日付報道)
 「興奮や恐怖に駆られて日本軍の近くを突っ走った中国人はすぐに狙撃された。明かに背中から射たれた老人の死体などが、うつ伏せになって歩道によく横たわっていた」(1938年1月9日付報道)

予想されなかった虐殺

 ――日本軍はやはり民間人をも無差別に殺したのですか。
 
 「はい、無差別の殺害といえます。銃で射つのがもっとも多かった。
 銃剣を使う場合もあった。
 とにかくウサギを殺すような感じでの虐殺が行われたのです」
 ダーティン氏はこうした発言をしながらもとくに表情は変えず、淡々とした口調で語りつづける。
 「南京の日本軍兵士は、上層部から略奪や虐殺をしてもよいという通達を受けているような印象を、私は受けました。
 『中国人を殺せ』というような命令ではないにせよ、『殺してもかまわない』というような通達です。こうした行動は私には大きなおどろきでした」
 
 ――どうしてですか。
 
 「日本軍は上海周辺など他の戦闘ではその種の虐殺などまるでしていなかったからです。
 上海付近では日本軍の戦いを何度もみたけれども、民間人をやたらに殺すということはなかった。
 漢口市内では日本軍は中国人を処刑したが、それでも規模はごく小さかった。
 南京はそれまでの日本軍の行動パターンとは違っていたのです。南京市民にとっても、それはまったく予期せぬ事態でした」
 
 ――南京にいた中国の民間人は虐殺などがあるとは思っていなかったということですか。
 
 「南京の市民や周辺の住民は中国軍にすべてを焼き払われ、戦闘が長く続き、日本軍が南京を制圧したときには一種の安堵感をおぼえていた人も多かったのです。
 日本軍の占領をあきらめからにせよ、歓迎しようとする市民たちもいたのです。
 それまでの2、30年間も中国の軍閥に支配され、搾取(さくしゅ)され、軍閥同士の戦いで被害を受け、という状態で、別に支配者が日本軍になってもそう変わりはしない。
 日本軍でさえ、またやがては去って行く。
 戦闘を終了させたことだけでも日本軍を歓迎してもよいではないか――そんな受け止め方が多かったのです。
 まさか日本軍が民間人を虐殺するなどとはまったく考えていなかったのです。
 もしそんな心配が前からあったなら、民間人はみな市内から逃げていたでしょう。」
 
 ダーティン氏のこの言葉も、「上海から南京への進撃途中に日本軍が中国人を大量虐殺した」という説に疑問符を突きつけている。
 もしそうした虐殺があったならば、南京陥落時に市内に中国民間人が多数、残っていて、歓迎の姿勢さえみせるということもなかったはず、と考えるのが自然だろう。
 では南京市内で日本軍に殺された中国側民間人の数はどのくらいなのか。
 ダーティン記者は12月18日付記事では「数千人にのぼった」と報じている。
 
 ――民間人の死者の数はもう少し具体的に推定はできなかったのですか。
 
 「ええ、数千という以上にはわからないですね」
 
 ――日本軍が攻略した時点での南京市内の総人口はどのくらいだったのですか。
 
 「私が自分の記事で報じたのはたしか50万だったか・・・・・あるいは30万だったか。とにかく近郊からの避難民もかなり流れ込んでいたわけですから・・・・」
 
 ――1937年12月12日付のダーティン特派員電のすぐ下に掲載されている上海発のハムレット・アベンド記者の報道は、南京市内にいる中国民間人の人数が30万人だとしていますね。
 
 「ああ、そうですか。それなら私もきっと30万人という推定をしていたと思います」
 
 ――ダーティンさんの一連の記事を読んでみると、南京市内の非常にくわしい状況が描かれていますが、自分自身での目撃、確認以外にはどんな情報があったのですか。
 
 「まず、中国軍の将兵や司令官にはわりに簡単に接触できました。私は中国語が少しはできたし、車を自分で運転していたから自由に動き、取材できました。
 また中国の外務省の職員もかなり残っていた。
 それからもちろんアメリカ大使館にごく少数だけれども信頼のできる外交官が残っていました。
 イギリスも武官のような立場の職員を残留させていた。また地元の大学のアメリカ人教職員や宣教師たちも貴重な情報源となりました」
 
 ――しかし日本軍はなぜとくに南京だけでそうした虐殺のような行動をとったのでしょうか。
 
 「いくつもの説があります。日本軍の上層部がそういう残虐行為を首都で誇示すれば、中国側を恐怖におののかせ、おびえさせ、蒋介石総統を降伏へと追い込めるのではないかと考えていた、というのがそのひとつです。
 それ以前にも日本の軍閥は『中国の挑発』をきびしく非難し、中国側の理不尽さを訴えるプロパガンダを打ち上げていました。
 中国側に対処するのはとにかく武力と残虐を示すことが最善という考え方があったのではないでしょうか。そういう考え方はなにも日本だけではありません」
 
 ――というと?
 
 「力のことさらの誇示というのは、それまでの1世紀以上も列強が中国に対してとってきた戦術だったのです。
 たとえばイギリスが中国に対しなにかを要求してすぐに得られなければ、砲艦を揚子江に派遣して、都市や町に砲弾を撃ちこんだわけです。
 フランスも同様でした。1900年の義和団事件でも列強が中国に対してとった行動は苛酷(かこく)で残忍でした。
 諸外国に間では中国にいうことをきかせるためには、断固たる実力を行使するのが唯一で最善の方法だ、というのが習慣的な考え方になっていたのです。
 日本もそうした態度をまねていたのではないでしょうか。
 そのほかに日本人は日本社会のなかではきちんとした行動規範を守り、責任感を持っているものの、中国のような外部に出るといっきょにそれらを捨てさる傾向がある、ともいわれていました。なにしろ当時は日本はアジアを支配する神聖な任務があると自称していたのですからね」
 
 ――でも虐殺によっては中国側を屈服はできなかったわけですね。
 
 「ええ、効果はむしろ逆でしたね。日本軍は南京での虐殺で中国側の以後の反抗の士気をかえって高めてしまったと言えます。
 それまでの中国人一般人は別に外国勢力に占領されても、それほどひどいことはなかったから、日本の占領下でもなんとか生きていけるだろう、という態度した。
 しかし南京での日本軍の行動により、日本軍に占領されたらとんでもないことになるという恐怖の念が中国側に広がり、日本軍への抵抗を極端に強くする結果となったのです。中国側が『焦土作戦』をより徹底して進めるようになったのもその結果です。のちに長沙が日本軍に占領されてそうなると、中国側が市街全体をすべて焼き払ってしまったのも、その一例です」
 
 ――当時、そうした日本軍の行動をみて、ダーティンさん自身は日本人に対しどんな感情を抱きましたか。
 
 「もちろんあんな残虐行為をはたらいた日本軍将兵には嫌悪を抱きました。強い怒りを感じました。
 かといって日本人全体を非難するという気持はなかったといえます。
 私自身がそれまでに人間のいろいろな姿を十分にみていたので、一群の人たちの異常な行動からその人たちの民族全体とか国民全体を非難するという気持ちにはならなかったのでしょう。
 日本民族が本来、残虐な性質を持っているなどとは思ったことがありません。
 ある意味では南京での虐殺も私にとってはたまたまそこで起こったひとつの出来事にすぎませんでした。
 なにしろ当時は戦争だったのです。歴史的にみても、この種の虐殺というのは少しも珍しいことではありません」
 
 ――しかしアジアの近隣諸国の間には「南京虐殺」をかつての大東亜共栄圏構想などとあわせて、日本が常にアジア制覇を仮借のない手段でめざそうとする警戒論の根拠にする向きもあるようです。
 
 「それはあまり根拠のない懸念や警戒心だと思いますよ。諸外国のリーダーが日本と競争する課程で使う一種の議論ではないでしょうか。
 たとえば近年、東南アジア諸国の指導者たちが「日本がまたアジアを侵略する」趣旨の発言をしますが、私はそうは思いません。それら指導者たちは自国での政治目的のためにその種の発言をする場合が多いようです」

何人が殺されたのか

 ――当時、日本人との接触はありましたか。
 
 「アメリカから中国への最初の船旅び途中では日本に2週間ほど滞在しました。
 丸の内のYMCAに泊り、日本食を食べ、あちこちを見学して、日本の人にも多数、会いました。
 このとき知り合った日本人たちからはきわめてよい印象を受けたのを覚えています」
 
 ――日中戦争が始まってからはどうですか。
 
 「南京攻防戦の際でも日本軍将兵の中には自制や寛容さをもって行動している人たちもいました。
 私自身、日本軍が市内を占領してすぐ、激しい戦闘のあったばかりの東方の城門で日本軍将校と話をしましたが、その将校がきわめて礼儀正しかったことを記憶しています。
 日本軍と接触した他の外国人たちからも理や情をわきまえているようにみえる将兵に会ったという話を聞きました。」
 
 ――日本軍兵士の残虐行為を制止しようとする将校もなかにはいたのでしょうか。
 
 「いや、私自身は少なくともそういう光景はまったくみませんでした。
 しかし戦後になって南京での行為の責任を問われて中国側に処刑された日本の将軍のひとりが、虐殺をとめようと努めたことを証する証人がいたということは聞いています」
 
 ――しかし捕虜の大量処刑や民間人の無差別な虐殺が力の誇示により中国側を心理的に屈服させるという目的でもしなされたとすれば、それは非人道的な軍事戦術の結果であり、日本軍の個々の将兵がとくに残虐であったことを必ずしも意味しないという解釈も成り立ちませんか。
 
 「いや、わたしは、その両面の面があったと思うのです。
 たしかに南京の日本軍の上層部のどこかで戦術的、政治的な目的のために中国人を無差別に殺すという決定が下されていたような印象が強かった。
 しかしそれを実行した日本軍将兵も非常に残忍でした。殺戮そのものに勢いがつき、多くの将兵がそれに巻きこまれてしまったともいえる感じがしました」
 
 ――日本軍のその種の非人道的な軍事戦略は南京以外ではあまりうかがわれなかったということでしたね。
 
 「日本軍は南京攻略のあと漢口を攻撃して占拠しましたが、私はそのとき漢口にいました。
 その際には無差別とか大量の殺戮というのはまったくみませんでした。
 中国の国民党政権が南京での虐殺を内外に向けて宣伝し、非難していたので日本側も気をつけるようになったのかもしれません」
 
 しかしダーティン氏が目撃して語る「南京虐殺」では軍民あわせてその犠牲者の数はどのくらいになるのだろう。
 すでに述べたように、ダーティン氏の当時の報道は中国側の軍人約2万人が処刑され、民間人数千人が無差別に殺された、と推定していた。
 ただしこの場合の「数千人」というのは英語では特にあいまいな表現である。
 ちなみにダーティン氏とともに当時、南京にいたシカゴ・デイリー・ニュースのスティール記者は1937年12月15日付の同紙の記事で、日本軍により処刑の形で殺された中国軍捕虜の数は「推定するには難しいが、5千人から2万人の間とみられる」と書いている。ダーティン報道と基本的には一致しているわけだ。
 民間人の虐殺については、スティール記者も「大規模で無差別の殺害」であったことを伝えており、犠牲者の数に関してはやはり「数千人」という表現を使っている。
 スティール記者のこうした推定数もダーティン記者同様に12月15日の時点までの報告である。
 両記者とも同15日にはアメリカ海軍の砲艦オアフ号に乗って南京を離れたのだ。
 犠牲者の総数の推定についてはダーティン氏に改めて尋ねてみた。
 
 ――南京で日本軍により戦闘以外で殺された中国の人たちですが、ダーティンさんの当時の報道では軍人の捕虜が2万人、民間人が比較的なニュアンスのある表現にせよ数千人とされていますね。
 
 「ええ、当時、できるだけ数多くの関係者に質問し、自分の体験や見聞も含めて推定した数だといえます。
 質問した相手のなかには日本側関係者もいました。
 中国外務省の職員たちもいました。しかしああした状況下では犠牲者の正確な数を推定することはきわめて困難なのは自明です。周知のように中国側は犠牲者30万と主張しています」
 
 ――ダーティンさんの報道した数字と中国側のその数字とではあまりにも差がありすぎますね。
 
 「すでに述べたように、私が南京にいたのは日本軍の占領から3日目の12月15日までですから、私が報道した数字はあくまでその時点のものです。
 南京占領後、日本軍の虐殺は2ヶ月以上つづいたといわれているのです」
 
 ――中国側のいう30万という数字の根拠についてダーティンさん自身はなにか知っていますか。
 
 「いや、私にはその根拠はわかりません」

今でも残念なこと

 それにしても最初の3日間の数字とはいえダーティン報道の「2万数千」と中国側の「30万」、東京裁判での「20万」という数字の間にはへだたりがありすぎる。
 日本軍が最初の3日間のペースをたとえそのままつづけたとしても、もう捕虜2万を超えてはほとんどいないはずである。
 民間人を「数千」ずつ殺しても毎日、同じペースで1ヶ月も2ヶ月もつづけなければ「30万」には達しない。しかも南京の総人口は30万とか50万とみつもられて状況下で、である。
 
 ――12月15日以降、南京市民が20万か30万人も殺されたとなると、想像もしなかったむごたらしい虐殺が目前で起きているのを知りながら市民あるいは市内の避難民は、別に逃げようともせず、じっとしていたことになりますね。
 
 「それはそうかもしれませんね。私にはそのへんのことはわかりません」
 
 ダーティン氏はそう言葉少なに答えながらも、中国側の「30万」という数字にとくに異をとなえるような発言もいっさい口にしなかった。
 そして逆に私に南京の虐殺を記念して中国側が建てた博物館をみたことがあるかと、問いかけてきた。
 私は「ありません」と答えた。
 
 「私は昨年、妻といっしょに見学しました。結婚50周年の記念旅行の途中でした。その博物館にははっきりと犠牲者の数が30万だったと書かれているのですね。見学にきている人の大多数が日本人なのにはやや意外な感じがしました」
 
 ダーティン氏はこんなことを淡々と語った。
 
 南京以降もダーティン氏はニューヨーク・タイムズ記者として戦争の報道をつづけた。
 戦後も中国で国民党と共産党との内戦をカバ―した。
 重慶とか延安をあわただしく駆けまわった。その後にはニューヨーク・タイムズの中国総支局長となり、短期間ながらも東京支局長の役をつとめたこともあるという。
 特派員生活を回想するうちに話はまた南京報道へともどった。
 
 「それにしてもいま思いだしても残念なのは、南京虐殺の第一報ではシカゴ・デイリー・ニューズのアーチボルド・スティール記者にわずかながらさきを越されたことですね。
 南京からは電報が打てず、2人でいっしょに砲艦オアフ号に乗り込んだのですが、艦内の無線士に海軍の無線で記事を送ってもらえないかと頼んだら「海軍の規則に反するから」と断られたのです。
 私はそれであきらめて、上海に着いてから送ることにしました。
 ところがスティール記者はあとでこっそり無線士に打電させていたのですよ。
 だから彼の記事が2、3日早く掲載されてしまった。でも内容は私の記事のほうが断然よかったという自身がいまでもあります」
 
 ダーティン氏は長いインタビューの最後にこんなことを言って、初めて愉快そうに顔をほころばせた。(文藝春秋89・10より)


南京大虐殺はウソだ!
http://www.history.gr.jp/~nanking/dathin.html

theme : 読書
genre : 本・雑誌

「民主党も自民党も死ぬ覚悟で政治をしているか?!」

2010.10.01.12:44

「東シナ海にあるのは漁業資源だけじゃなくて、海底資源、それも天然ガスとか、原油だけじゃなく、石油だけじゃなくてですよ、メタンハイドレートもたくさんあると、それを中国の船が自由に調査しているのに、日本は何も手出しができないと、イージス艦をあげても何もできないというのが日本の現実だとわかってるから、あえて役所の垣根を越えて、水産庁のわずかな予算だけども、青山千春博士の技術だと魚群探知機だそうだから、魚群探知機は金かからないという事は水産庁わかっているわけで、それで行ってきたわけですよ。行ってこられて予算があるのかと思ったら、なんと年間250万。」

「青山千春博士に「どうしますか?」って聞いたら、この人は全くの科学者で、ちなみに社長の僕の書いた文章を一行一字も今まで読んだことがない。誇張じゃないんですよ。本当に一字も読んだことがない。国際社会に、国際学会にたくさんの論文発表してますが、もちろん英文で、そして数式がたくさん占めてるやつ。その全くの自然科学者が僕に何を言ったかというと、「社長、これはやるべきです。やりましょう」。僕は「えっどうして?」と聞いたら、「祖国のためですから。」彼女は言ったんですよ。僕はおもわず「おまえ祖国なんて言葉よく知ってるなぁ」と言ったんですよ。」








theme : 尖閣諸島問題
genre : 政治・経済

書籍 日本よ、「戦略力」を高めよ 「憲法九条」「国連至上主義」の呪縛を解く

2010.07.19.20:19

過去が現在を作るように、現在が過去を作ります。
かつての南京事件は日中外交に大きく関わっています。
日本は中国とどのように対峙するべきかを著書は紹介します。

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国家基本問題研究所(国基研)の4人のメンバーが、2009年4月に米国ワシントンを訪れ、軍事そして政治アナリストたちとの「対話と論争」を試みます。
日米関係、日中関係、東アジア情勢について話し合い、4人は専門分野から国際情勢を分析し、日本が生き残るための提言をします。

国家基本問題研究所(国基研・JINF)
http://jinf.jp/
目次よりメンバー、そして内容を紹介いたします。

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はじめに~日本衰退の潮流の逆転をさせよう    櫻井よしこ

櫻井よしこブログ
http://yoshiko-sakurai.jp/

対話重視といっても、米国の手元には世界最強の軍事力があり、如何なる国もその力を無視するこはできない。日本はどうか。自衛隊は、種々の法律によって軍隊として活動することを許されていない。軍事力においても中国をはじめロシア、北朝鮮、韓国、インド、オーストラリアなど周辺諸国が急速に充実強化させつつあるのとは対照的に、唯一、日本だけが軍事費を削減し続けている。日本の軍事力には法的、物理的空洞が目立つのであり、民主党の外交、防衛政策では、右の二つの空洞ゆえに弱体化しいる日本の国防力はさらに弱体化していくことが懸念される。そこで、改めて、眼前の日本の危機への処方箋を示すものとして、本書、『日本よ、「戦略力」を高めよ』を、訪米した四人で書き下ろすことにした。

文藝春秋のサイトで、櫻井さんの「はじめに」のみ「立ち読み」
http://www.bunshun.co.jp/tachiyomi/200910/t9784163718606.htm

櫻井よしこ(さくらい・よしこ)
ベトナム生まれ。ハワイ州立大学歴史学部卒業。「クリスチャン・サイエンス・モニター」紙東京支局員、アジア新聞財団「DEPTH NEWS」記者、同東京支局長、日本テレビ・ニュースキャスター
を経て、現在はフリー・ジャーナリスト。1995年に『エイズ犯罪 血友病患者の悲劇』(中公文庫)で第26回大宅壮一ノンフィクション賞、98年には『日本の危機』(新潮文庫)などで第46回菊池寛賞を受賞。2007年12月「国家基本問題研究所」を設立し理事長に就任。主な著書に『論戦』シリーズ(ダイヤモンド社)、『異形の大国 中国』『何があっても大丈夫』(新潮社)、『明治人の
姿』(小学館101新書)、『保守新生』(共著、宝島社)など多数。


日米両国民に訴える~ソフトパワーの限界      櫻井よしこ(所長)

……ちょうど20年前に起こった、1989年の「ベルリンの壁」崩壊は、ハンガリーが東独からの「旅行者」に対してオーストリアとの国境を開き、自由世界への脱出口を提供したことが流れを大きく左右した。中国が、脱北者の強制送還をやめ、国連難民条約締約国としての義務を果たすだけで、すなわち韓国への脱出を認めるだけで、金正日体制はただちに出血多量で倒れるだろう。三人のスポイルド・チルドレンのうち後継者は誰かといった話など、即座にニュース価値を失う。ところが中国は、国連難民条約に違反して脱北者の強制送還をつづけている。2005年に成立したアメリカの「北朝鮮人権法」に、「中国政府が、国連難民高等弁務官事務所(UNHCR)と脱北者の接触を拒み続けるなら、UNHCRは、中国との協定に基づき、仲裁手続きを開始しなければならない。現状においてなお仲裁要求権を行使しないとなれば、UNHCRは、その中核的責務を重大な形で放棄したことになろう」という一項がある。これは重要な指摘である。UNHCRには、中国に脱北者との接触を認めさせるべく仲裁を求める権利がある。「UNHCR・中国政府間の条約」(1995年)第16条は、友好的話し合いで意見の溝が埋まらない場合、「いずれかの当事者の要求」で仲裁手続きに入りうると規定し、具体的プロセスをこう定めている。双方が一人ずつの調停官を指名し、その二人が第三の調停官を任命して議長とする。仮に15日以内に第三の調停官が決まらない場合、いずれの当事者も、国際司法裁判所の長官に対し、調停官の任命を求めることができる。調停官たちの決定は、すべて二人の賛成によって下される。UNHCRが中国政府との「争い」を嫌い、いつまでも仲裁権を行使しないのは、明らかな職務怠慢である。UNHCR職員はただ給料をもらうため北京にいると言われても仕方ないだろう。UNHCRが権利を行使すれば(義務を果たせば)、15日プラス・アルファ後には、中国は、勝手気ままな脱北者強制送還は出来なくなる。それでも続ければ、難民条約違反が一段と明らかになる。日本政府は各国にも働きかけ、UNHCRが即座に調停手続きに入るよう、資金面も含め、強く圧力を掛けねばならない。……

『中国に関しては、軍事面でも考えるべき点がある。国家基本問題研究所のメンバーと訪米した折り、面談した米側専門家から、次のような意見が数多く聞かれた。
すなわち「北朝鮮を支える中国共産党に対し、日米サイドが示しうる最も効果的なムチは日本の軍拡だ……」。(中略)「しかし、日本には核抑止力保持を含む軍拡に乗り出す政治的意思はない、中国側はそう見切ってリラックスしている」残念ながら、当たっていると言わざるをえない。ただし、核の政治的敷居は依然として高いにせよ、敵基地攻撃力の開発・配備に日本が本格的に乗り出すだけで、状況は相当変わってこよう。六月、自民党国防部会がまとめた防衛計画大綱の改定素案は、弾道ミサイル対処では、「策源地攻撃が必要」と明記し、海上発射型の巡航ミサイル導入などを提言した。


民主党・小沢安保路線は「亡国」への道        田久保忠衛(副理事長、杏林大学客員教授)


オバマ大統領は北朝鮮と戦えない           島田洋一(企画委員、福井県立大学教授)

島田洋一ブログ (Shimada Yoichi Blog)攻撃は最大の防御。「先制攻撃のできる平和国家」日本へ。
http://island.iza.ne.jp/blog/

中国は2050年、唯一の超大国となるか        冨山泰(事務局次長、主任研究員)

中国はあっと驚く軍備拡張を遂行してきている。まず中国の軍事費だが、公表された数字としては、2009年の国防予算は4806億元(約6兆8千億円。日本の約1.5倍。ドル換算では約700憶ドル。)だ。これは二十一年連続二桁の上昇を示しており、1989年以来、名目で約二十倍になっている。米国防省の推定では、実際の軍事支出は公表数字の2~3倍であるという。スウェーデンの国際平和研究所は、2008年の中国の実質的な軍事支出を849億ドルと推定し、アメリカに次いで初めて世界第二位になったとみている。こうして軍事大国への道を着実に歩む中国に対し、アメリカが警戒するのは主に以下の二点である。①、短期的(現在~5年後)には、台湾攻撃能力と西太平洋における米軍作戦妨害能力を確立しそうなこと。②、中長期的(10年~20年後)には、西太平洋だけでなく地球規模でアメリカに挑戦し、場合によっては宇宙からも挑戦してくる可能性があること。では、その台湾攻撃能力だが、短距離弾道ミサイル(SRBM)の増強が著しい。国防総省の『中国の軍事力』よると、「東風(DF)15号}(CSS6、射程600キロ)と、「東風11号(CSS7、同300キロ)が2002年版で、合計350発だったのが、2009年版では、1050~1150発と、3倍かそれ以上に拡充されたことが明らかにされている。SRBMのうち、射程が長い方の東風15号は、日本の尖閣諸島のほか、宮古、石垣、西表、与那国といった島々にも届く。弾道ミサイルだけではない。台湾の戦闘機を撃堕するため新型の地対空ミサイル(SAM)「SA20 PMU2」も続々と配備されている。「中国の軍事力」は、かつては台湾海峡の制空権を台湾が握っていたが、今やそうは言い切れないとまでに評価を下している。次に、中国は西太平洋における米軍作戦妨害(アクセス阻止)能力も強化しつつある。 アクセス阻止は、アメリカの軍事戦略の弱点を突く作戦と言える。なぜかと
いえば、米中紛争となれば、当然舞台は西太平洋になるが、アメリカの本土からは遠い。ハワイからも遠隔地域だ。しかし、中国にとってはホームグランドだ。サッカーで言えば、アメリカは常にアウェーで戦わなくてはいけない。地の不利がある。従って、空母なくして戦うことは不可能だが、中国はアメリカの空母が西太平洋にアクセス(接近)できない能力を築きつつあるのだ。この関連でアメリカが最も警戒しているのは、空母を直撃する弾道ミサイルの開発である。今、中国は、「東風21号」を基に、対艦弾道ミサイル(ASBM)を開発中である。その「東風21号」(射程1750キロ)だが、日本本土および在日米軍基地への最大の脅威となっている。在日米軍基地が「東風21号」の射程内にすっぽり収まっている。この他、中国軍事力の専門家のフィッシャー上級研究員によると、台湾を主要な標的とするSRBM東風15号の射程を1000キロまで伸ばした、「東風15号」改良型が存在するとされ、事実なら、沖縄本島、西日本が射程内に入る。また、アメリカの軍事作戦のもう一つの弱みは、ハイテクや宇宙機器への依存度が高いこおだ。このため、中国は米軍の指揮、通信系統を攻撃する兵器の開発に力をいれている。中国は2007年1月、衛星攻撃実験に成功し、戦時に米軍の偵察、通信衛星を破壊する能力があることを実証した。サイバー攻撃能力も着々と強めている。『中国の軍事力』には、中国の人民解放軍にコンピューター・ウィルス攻撃を仕掛け、米軍の指揮、通信系統はもちろんのこと、アメリカ経済も麻痺させることを計画しているに違いない。アメリカ経済への打撃は「核ミサイル並み」(フィッシャー)と予想されている。「中国は2015年までに西太平洋の米軍軍事力を無力化する能力を持つだろう。この時までに、米軍は西太平洋にアクセスできなくなる。中国は2020年代までに他の地域でもアクセス阻止能力を持つようになる。中国の究極的目標は21世紀半ば、2050年までに、世界を支配的な軍事大国になることだ。」と、フィッシャーは述べた。では、日本はどうすべきか。当面、日米同盟の強化をはあるべきことは言うまでもないが、同時に将来の米中(G2)の「異常接近」で日本が取り残されかねない自体にも備えるべきである。2010年には日米同盟安保条約改定50周年の節目を迎える当たって、日本は次の措置を実行していく必要がる。① 米軍再編合意の速やかな実行② 集団的自衛権行使の容認を含む憲法解釈の見直し③ 民主主義諸国との提携を目指す価値観外交の展開④ 日本版NSC(国家安全保障会議)創設など必要な安保組織改革の実行⑤ 非核三原則の見直し⑥ 憲法9条改正、国連中心主義外交、国連至上主義の見直し。これらの中で、実は最も効果的なのは日本の核武装かもしれない。アメリカの保守派の外交評論家クラウトハマーも、2009年5月、米FOXニュースで、「北朝鮮のkk問題で中国に政策変更を促すために、日本に核武装宣言をしてもらいたい。」と述べ、核武装待望論を展開している。もちろん、こういう意見は、アメリカでは少数ではあるが、中国の圧力や北朝鮮の恫喝によって、日本が生き残るために否応なく、日本の核武装を真剣に日米が考察いなくてはならない時が、遠からずやってくるかもしれない。その覚悟だけは今からしておく必要があろう。

2050年ごろといえば、米国の中国軍事力専門家リチャード・フィッシャー氏が「中国の究極的目標は21世紀半ばに世界の支配的な軍事大国になることだ」と警鐘を鳴らしている時期と重なる。


おわりに~「危機の十年」が始まった。         田久保忠衛

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読後、以下の3つの内容が印象に残りました。

米国の軍事家そして政治家には、「村山談話」を境界に、「ストロング・ジャパン派」と「ウィーク・ジャパン派」がいるとのことです。
ストロング・ジャパン派のひとり?クロプシー氏(元海軍副次官、ハドソン研究所上級研究員)は「米国のまじめなアジア観測者であれば、日本が”普通の国”になるのは日本にとっても、アジアの安全保障にとっても、日米同盟にとってもよいことだという点で大方の意見が一致するだろう」と述べています。ハドソン研究所は米国保守系シンクタンクです。並び称されるアメリカンエンタープライズインスティテゥートのブルメンソール氏は中国の脅威を「第2次大戦以来、米国が直面する初めての深刻な脅威」と表現しました。しかし一方では、2009年のペンタゴン「中国の軍事力」報告書ではヘッジというキーワード(対中防衛策)が消えています。

ワシントンでは北朝鮮労働党に関わってきた脱北者より「中国と北朝鮮の関係」を知ります。オバマ政権議会諮問機関「米中経済安保再検討委員会」バーソロミュー委員長は「中国は北朝鮮の政権交代を望まない理由として難民の流出と朝鮮半島の混乱を挙げますが、彼らが真に恐れるのは東アジアの力の崩壊のバランスでしょう。韓国が北朝鮮を統一すれば、民主的な勢力が国境に迫ります。それを嫌っているのです。」と言います。ワシントンポスト2009年6月27日付けでも「北朝鮮への中国のエネルギー供給は90%、2008年の中朝貿易額は前年比41%増、対外取引の中国シュアは73%」と記しています。これ受けて櫻井氏は、中国の金正日支援は国策であり、北朝鮮の核・ミサイル問題の国連決議に中国政府は表向き賛成しながらも明確に違反し続け、北朝鮮問題は中国問題であり、さらに拉致問題も究極的に中国問題であると訴えます。

アジア安全保障問題の研究家・フィッシャー氏の著書「中国の軍事力の近代化(2008)」では「中国の海洋大国への道は単に国防のためではなく、ナショナリズムの観点から感じ取るべきものである。海軍力の増強はアジアのリーダーとしての地位の確立とともに、欧米列強及び日本に支配された歴史の屈辱を晴らす中国人の決意から促されたものである。」と述べられています。これを受けて櫻井氏は、日本と中国の1:3の軍事費は、10年後には0.8:30という軍事バランスになりかねないと訴えます。

中国が、今現在刻々と軍事力を蓄えながら、晴らそうとする歴史の相克に対峙するのが、南京の真実を知らせ隊の役目です。

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