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名古屋の第3師団

2012.08.22.18:02

松井大将と第三師団の汚名をそそげ!(阿羅健一)(2012年04月10日)

 南京事件の責任を負わされ絞首刑となった松井石根大将は名古屋に生まれている。武士の家柄で、陸軍大学校を一番で卒業、大将まで累進した。孫文の大アジア主義に共鳴し、進んで中国関係の部署に勤務、中国人の友達知人も多かった。南京攻略が終わって、翌年二月、凱旋帰国すると、上海でたおれた日中双方の将兵を思い、観音像を建立して弔おうと考えた。東亜同文書院を卒業した岡田尚に命じて激戦のあった上海の土を送らせ、名工に観音像を建立させ、興亜観音と名づけた。予備役に戻っていた松井大将は、熱海の伊豆山に堂を作り、興亜観音像をおさめると。そのふもとに越し、お参りすることを日課とした。

 名古屋に師団司令部を置いていた第三師団は上海の戦いで兵隊がすっかり代わるほど苦戦を強いられた。上海占領、南京陥落、という華々しい声に消されてその苦戦が語られることは少ないが、日露戦争の旅順攻略に勝るとも劣らない犠牲を払った。

 南京を攻略することになったとき、上海派遣軍では苦戦した第三師団にも花を持たせようと、十二月十日、急遽、歩兵第六十八連隊と砲兵隊に参戦を命じた。歩兵第六十八連隊は第三師団を代表して南京に急行、十二月十三日、武定門から入り、一帯と通済門を掃蕩した。第三師団は南京攻略の栄をにない、警備のため十日近く南京にとどまった。

 このように名古屋は南京事件と無縁ではない。

河村発言を支持し「南京」の真実を究明する国民運動
http://ameblo.jp/nankinkokumin/entry-11219151740.html


第3師団は、大日本帝国陸軍の師団の一つであり、名古屋方面出身者から構成される陸軍師団です。



その前身は明治6年(1873)に名古屋城内に設置された名古屋鎮台です。
明治21年(1888)全国に6つあった鎮台が師団へ改編される中、第3師団と名前を変えました。
200個を数える陸軍師団でも最も古い師団の一つです。
日清戦争、日露戦争、そして支那事変、大東亜戦争に参戦します。

師団は6千人から2万人程度の兵員を持ち、師管内にある軍隊を統率し、徴兵、治安出動、軍法会議など軍事に係る事案を所轄しました。
師団長には中将があてられ、近衛師団、戦車師団、高射師団、飛行師団など1~6の師団が置かれました。

昭和12年の部隊は、師団司令部、歩兵第5旅団歩兵6連隊(昭和16年以降中部2連隊)、騎兵隊4旅団騎兵第3連隊、野砲兵第3連隊(昭和16年以降中部8連隊)、輜重第3連隊(昭和16年以降中部13連隊)にて構成されていました。

昭和12年(1937)7月日中戦争勃発。
第3師団は第11師団とともに上海の在留邦人救援という名目で編成された上海派遣軍の指揮下に入ります。
第二次上海事変での中国軍との交戦では、第9師団・第13師団・第101師団・重藤支隊の増派と、更には第10軍の増援を仰ぎ、中国軍を撃破。

そして、南京攻略線に参加するのです。

Wiki. 参照
http://ja.wikipedia.org/wiki/第3師団_(日本軍)

昭和初期の名古屋「第三師団司令部」/Network2010
http://network2010.org/article/122

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中国黒竜江省方正県旧満蒙開拓団員慰霊碑の建立

2011.11.09.15:21

満蒙開拓移民(満蒙開拓団)は、満州事変より東亜戦争終結まで日本政府の国策によって推進された中国大陸の旧満州、内蒙古、華北に入植した日本人の移民の総称です。

昭和6年(1931)の満州事変以降に日本からの満州国への移民が本格化。昭和11年(1936)広田内閣は「満州開拓移民推進計画」を決議し、日本政府は、昭和8年(1938)から農業青年、家族移住者、青少年義勇軍ら満州開拓団移民の総数は27万人とも、32万人ともされます。加藤完治が移住責任者となり、満州拓殖公社が業務を担っていました。この移住は日本軍が日本海と東シナ海の制空権・制海権を失うまで続きました。

その後・・

中国黒竜江省方正県に残った日本人の公募が立てられたのは昭和38年(1963)のことです。
まだまだ、戦中戦後の人々の過酷な環境と生活が続いている頃でした。
それは方正県の中国人にとっても、そして残留した日本人にとってもです。
そこにはまだ両国の人々が助け合いながら生活する姿があったのです。
「取り壊すべきだ」との意見もありましたが、同県は中央政府と連絡を重ねて同意を得て保存していました。

そして今・・

中国黒竜江省方正県に旧満蒙開拓団員慰霊碑が建立されました。
その碑文を書かせていただきます。
ここに残さなければ、もうこの碑文を読むことはできないのですから。

【日本開拓団員の犠牲者名簿碑序文】
1945年に日本の敗戦・投降より、開拓団民1万5000人余りが方正に終結し、帰国の手だてを探った。(冬になっても帰国できなかったため)飢えと寒さと疾病により、5000人以上が死亡したが、簡単に埋葬されただけだった。その後20年あまりが経過し、遺骨は荒野にさらされることになった。方正人民は見るにしのびず、仁善の心をもって遺骨を集めた。1963年には周恩来総理の許可を得て、「方正地区日本人公墓」を建設し、遺骨を納めた。1984年には、「麻山地区日本人公墓」も同地に移した。葬られた死者の氏名は、各方面の努力により部分的に判明した。ゆえに、ここに、死者の名を刻み記録することにした。第1の目的は、後の世代の日本人に、ここに先人が永眠している、忘れないでほしいと伝えるためである。第2の目的は、人類の善なる愛と人間性の根本を示すためである。第3の目的は、前事を忘れず後事の師とし、戦争の危害を反省し、平和の尊さを明示するためである。故に碑を建て、世人に警告することにした。


【中国人養父母物故者の名簿碑序文】
1945年秋から冬にかけ、日本人開拓民は敗戦という困難に直面し、方正から撤退していった。この地で多くの幼児が放棄され、孤児となった。その弱い体では、露や寒さをしのぐべくもなかった。方正の人々は、敵国の民といえども見捨てることができず、黄帝・炎帝の時代から伝えられる礼をもって、(孤児らに)衣食を与えた。長い年月を経て、苦労を重ね、貧しい中はあったが、孤児たちは成長し、(残される養父母を思い)心を痛めながらも故郷を目指して去って行った。「鳥も、育ててもらった恩に報いる。羊の子も、乳を授けてもらった者にはひざまずく」との考えにもとづき、孤児であった遠藤勇氏は(すでに物故した)中国人養父母の公墓を築いた。養育の恩をたたえ、天も地もその情に報いることは難しいことを示すためである。ここに、養父母の功績と、恨みを乗り越えた徳を示したことをたたえるために、物故した養父母の名を刻むことにした。その名を残し、後の世代の人々を育てるためである。


歴史の礎がここに刻まれていました。

石碑は中国外務省の承認を得て、7月に開拓団員の眠る日本人公墓側に建立されました。
長野や埼玉、山口など各県出身の死亡者約250人の氏名が刻まれていました。

満蒙開拓移民を先の大戦の不幸の詐称として取り上げるばかりの主張があります。
しかし開拓民は生きるためにこの地を辿り、命の限りを家族や隣人に捧げました。
この地で多くの満州開拓移民が生涯を終え、また中国人に預けられ育てられた残留孤児がいました。
その生涯は、辛くもあれば、喜びの日も楽しみの日もあったはずです。
帰国した日本人が養父母や両親の墓地を訪ね、それを現地政府が受け入れているのです。

当時の人々が生きていた証がこの碑に刻まれていたのです。



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霊山護国神社のパール博士顕彰碑

2011.09.16.21:13

パール博士顕彰碑が京都・東山の霊山護国神社境内に建立されたのは、平成9年(1997)11月のことです。

この霊山には、明治天皇の命により、明治維新の多くの志士たちが祀れら、坂本龍馬・中岡慎太郎の銅像、そして麓には明治維新記念館があります。またこの霊山からの展望は素晴らしく、京都の街を一望に鳥瞰できます。



 
パール博士顕彰碑は、セラミック製の写真版が磨かれた半円の花崗岩の中央に浮き立つ姿でとなっています。

花崗岩右側壁面にはパール博士の判決文最後の名句が刻まれ、そして左側壁面には英文で刻まれています。

「時が、熱狂と偏見をやわらげた暁には、また理性が、虚偽からその仮面を剥ぎ取った暁には、その時こそ、正義の女神は秤の平衡を保ちながら、過去の賞罰の多くに、その所を変えることを要求するであろう。」

記念碑の前に立つと自動的にパール博士の経歴と、法の真理を守った世界的な功績が、日本語と英語で解説されます。




5千万円が準備されたこの建立碑は同台経済懇話会(会長・瀬島龍三氏)が中心となり集まりました。

同台経済懇話会は、陸軍士官学校・陸軍経理学校・陸軍幼年学校(各在学生を含む)・防衛大学校出身者の経済人で構成され、会員数約650名です。
こちらにも「魂を抜かれた日本人」の著者・中條高アサヒビール株式会社名誉顧問が副代表幹事として在籍されています。
昭和50年(1975)に創立され(初代代表幹事・瀬島龍三)で、平成9年(1997)年11月20日インド独立50周年を記念して、京都霊山護国神社に「パール博士顕彰碑」を建立したというのが経緯です。


パール博士についてはこちらを参照してください。

2011/02/11 : ブログ・HP : 田中正明著『パール博士のことば』要約集 起の巻
http://mayuryou1025.blog76.fc2.com/blog-entry-69.html

2011/02/12 : ブログ・HP : 田中正明著『パール博士のことば』要約集 承の巻
http://mayuryou1025.blog76.fc2.com/blog-entry-70.html

2011/02/26 : ブログ・HP : 田中正明著『パール博士のことば』要約集 転の巻
http://mayuryou1025.blog76.fc2.com/blog-entry-71.html

2011/02/26 : ブログ・HP : 田中正明著『パール博士のことば』要約集 結の巻
http://mayuryou1025.blog76.fc2.com/blog-entry-72.html



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