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〈高橋史朗氏「戦後の日本が失ったもの」チャンネル桜 平成17年放送〉上

2015.03.20.04:26

戦後の日本が失ったもの① / 新・へっぽこ時事放談
http://hepoko.blog23.fc2.com/blog-entry-274.html

神戸で児童連続殺傷事件を起こしたA少年が書いた犯行声明の中に、「透明な存在」という言葉が三回出て参ります。また、「悲しいことに僕には国籍がない」という言葉もあります。これは「個」と「日本人のアイデンティティ」というものが欠落している現われではないかと私は感じております。
三島由紀夫が『文化防衛論』の中で、「豊かな音色が溢れないのは、どこかで断弦の時があったからだ」と指摘しました。断弦というのは、弦が断たれるという意味ですが、歴史と文化との断絶、これが今日の教育の姿に反映していると私は考えております。
また、夏目漱石が、「近代の日本の歴史は、文明を得て、文化を失った歴史だ」と指摘をしたわけでございますが、このことも大変示唆的な指摘であろうと思います。

私自身は30歳の時にアメリカに3年間留学致しまして、アメリカに持ち帰られました占領文書、GHQの文書を研究致しました。ワシントンに持ち帰られましたGHQ文書は、段ボール箱で12,083箱ありまして、その中に教育改革に関するものが、これはCIE(民間情報教育局)という部局の文書が917箱あります。これは、ページにしますと240万ページという膨大なものでございますが、最初私はワシントンの国立公文書館へ行きまして、そして別館でその資料を見て、気が遠くなるような思いが致しました。しかし、思い直しまして、240万ページ、一生かかれば何とか研究できるのではないかと、そんな思いが致しまして、ひたすら筆写をしました。私が手書きで写した資料だけで、段ボール箱10箱を越えております。3年間その占領文書を研究しながら、戦後日本が何を得て、何を失ったかということを考え続けて参りました。

占領政策を調べておりますと、まず最初にアメリカの国務省文書を見ておりましたら、対日占領政策の究極目的に関する資料がありました。通常の占領は、賠償するとか政治や経済の仕組みを変えるということでございますが、日本に対する占領政策は、精神の武装解除を行うという、大変厳しいものでございました。日本の哲学を解体する、日本の精神を解体するということを目指したものでした。そのことは、ミラン・クンデラというチェコの作家がおりますけど、この方が『笑いと忘却の書』という中で、登場人物に次のように語らせています。「一国の歴史を抹殺するための最初の手段は、その記憶を失わせることである。その国民の図書、その文化、その歴史を消し去った上で、誰かに新しい本を書かせ、新しい文化をつくらせて新しい歴史を発明させることだ。そうすれば間もなく、その国民は。国の現状についてもその過去についても忘れ始めることになるだろう」まさにこのことが、アメリカの占領政策よって、戦後日本に行われたのではないかと私は思っております。

消された歴史は「大東亜戦争史」でありまして、新しく作られた歴史は「太平洋戦争史」であります。 この「太平洋戦争史」は、日本語訳されたもの(『太平洋戰爭史』高山書院刊)が出版されております。この『太平洋戦争史』は昭和20年の12月8日から、全国紙に連載されました。何故12月8日なのか、これはAttack on Pearl Harbor(真珠湾攻撃)の日だからであります。12月8日付の朝日新聞は「奪う侵略の基地」、読売新聞は「隠蔽されし真実、今こそ明らかに暴露」「恥ずべし、南京の大悪虐暴行沙汰」という見出しで大々的に報じました。この『太平洋戦争史』の中で、南京等で行った虐殺行為というものが裁かれて、そして皇軍(天皇の軍隊)と信じていた国民達、道義の戦いでは決して負けてないと信じていた日本国民が、この『太平洋戦争史』によって自信を失っていった事実がございます。


-この『太平洋戦争史』の英文を読んでいましたら、この『太平洋戦争史』が立脚している原点というこのが、『平和と戦争(PEACE AND WAR)』という著書であることが分かりました。これはアメリカの国務省がまとめたものでございまして、朝日新聞社から翻訳文が出ておりますけれど、日本の古本屋にも出回っていない貴重な文献でございます。この『平和と戦争』というのは、あまり日本国民には知られていないんですけれども、1931年から41年までの10年間の侵略戦争の歴史を裁いたもので、アメリカ政府の公的な歴史観、米国史観というのものが書かれているわけでございます。この『平和と戦争』の歴史観は、典型的な善玉・悪玉史観でありまして、英米は民主主義で善の国で、日独伊は全体主義の国で悪の国あり、この太平洋戦争は、正義の国が邪悪な国を裁いた正義の戦争であるという歴史観で貫かれているわけでございます。その『平和と戦争』というものを原点として書かれた『太平洋戦争史』というものが、戦後の歴史教育の原点となりました。

昭和20年12月31日、敗戦の年の年末に修身、日本史、地理の授業が停止になりまして、それに替わってこの太平洋戦争史を教えるようにという指示が占領軍からありました。そして、出版物はことごとく「大東亜」という呼称が削除されました。新聞、雑誌といったあらゆる印刷物が厳格なチェックを受けました。これを検閲というわけですが、単に「大東亜戦争」という名称が「太平洋戦争」に改まっただけではなくて、その戦争の見方、戦争観ですね、その戦争観が大きく転換させられたということを意味しているわけであります。

この『太平洋戦争史』は、占領軍が日本人の潜在意識の根底に、戦争についての罪悪感、贖罪意識を植え込もうという、情報宣伝計画(ウォーギルドインフォメーションプログラム)の第一段階であり、太平洋戦争史を日本人に刷り込もうと考えたものであったことが、占領文書によって分かったわけであります。このウォーギルドインフォメーションプログラム(以下、WGIP)というものの存在は、江藤淳さんも本の中で紹介したわけでありますが、これも、アメリカの資料が研究されるまでは、日本人には知らされなかったことでございます。

私がアメリカで占領直後のGHQの月報(マンスリーレポート)を見ておりましたら、こういうことが書いてございました。敗戦直後の日本人には、戦争についての罪の意識がない。つまり悪かったという戦争に対する贖罪意識というものが、敗戦直後の日本人には見られないものであると、占領軍は分析しているわけであります。そして、今日の私たちの戦争に対する罪の意識の根本には、占領軍が巧妙に日本人の潜在意識の中に戦争についての贖罪意識を植え込むという、WGIPの影響が非常に大きかったわけであります。

江藤淳さんがそのことに関連して、「日本人は自分の生きた眼をえぐりとられて、占領軍の眼という義眼をはめ込まれた」という表現をしています。今日の、例えば靖国問題をめぐる動きにしましても、中国等が反対をしますのは、A級戦犯が祀られているというのが主な根拠でございますが、これは東京裁判の考え方でございまして、日本人本来の歴史観に基づくものではございません。つまり今日の日本人もまた、自分の眼で歴史を見ているのではなくて、実は占領軍の眼で、戦後五十数年経ってもまだ義眼をはめ込められているということを物語っているのではないかと思うわけでございます。

この占領軍の眼というものが一番影響を与えたのはマスコミであります。戦争で敗れて一ヶ月ほど経った時に、朝日新聞が発行停止になりました。これは、占領軍兵士の犯行や、鳩山一郎さんのアメリカの原爆投下を批判するコメントを載せたことが、占領軍の逆鱗に触れたからであります。そして、プレスコードというものができまして、以来朝日新聞は発行停止にならないように自主検閲をするようになりました。これは、戦後50年の時点で朝日新聞が当時を振り返っても、そのことを認めているわけでございますが、新聞社にとって発行停止というのは”万事休す”でございますので、自分達で自主的に発行停止にならないように、自主検閲をしたわけであります。当初は、自覚的に自主検閲をしたとしましても、だんだんとそれが無意識に、いつの間にかリモートコントロールされて義眼をはめ込まれ、占領軍の眼でものを書いているということになっている、と私は感じております。

さらに、先ほど検閲の話をしましたけれど、教科書の検閲もございました。私がワシントンで見たのは段ボール箱100箱分でございますが、これは社会科の教科書に関するものですけれども、全て英訳されて朱筆で修正が行われていました。特に修正が激しかったのは神話に関する記述でありますが、それ以外に教科書の記述で特に否定されたものは、まず天皇に関する用語であります。例えば「現御神(あきつみかみ)」といった天皇を意味する用語は教科書から排除されました。さらに「愛国心」に関わる記述も削除されました。

今、教育界の常識と一般世間の常識は大きく異なっております。愛国心についてもそのことがいえるわけであります。総理府が毎年世論調査を行っておりまして、「愛国心を育てる必要があると思う」と答えた国民は3分の2ぐらい毎年いるわけです。平成3年から、愛国心という言葉が、「国を愛する気持ちを育てる必要があると思うか」という表現に替わりましたら、約4分の3の国民が「YES」と答えております。つまり、愛国心については、3分の2から4分の3の国民が育てる必要があると答えているわけでありまして、これは、その時々の影響を受けないで一定した国民の常識になっているわけであります。

ところがこれを日教組でやれば全く違う結果になります。愛国心を育てるということは、戦争に繋がるとか軍国主義に繋がるというふうに、どうしても、そういう考えがまだ未だに強いわけです。そこで、日の丸や君が代の問題が、入学式や卒業式で五十数年経ってもまだ騒動が続いているわけであります。

教育を正常化していく、教育を良くしていくということは、一般常識と教育界の非常識の壁を取り払っていく、そのことが教育を正常化するということに繋がるわけであります。

偽文書が決定した対日認識「田中上奏文」を考える 岡田邦宏(2)世界を征服せんと欲せば

2015.03.19.11:45

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◆世界を征服せんと欲せば

ー「田中上奏文」とは、一体いかなるものか。この文書自体は、昭和二年(一九二七)、東方会議の決定内容を盛り込んで、当時の田中義一首相が一木宮内大臣に、天皇陛下への上奏を依頼したという格好をとっている。「昭和二年七月二十五日内閣総理大臣、田中義一、群臣を行率し、誠皇謹恐、謹みて我が帝国の満蒙に対する積極的根本政策に関する件を奏する」に始まり、満蒙に対する積極政策、朝鮮移民の奨励及び保護政策、新大陸の開拓と満蒙鉄道から金本位制度の実行などの経済政策に至るまでかなりの長文であるが、後に注目を集めたのは最初の小見出し「満蒙に対する積極政策」のなかに書かれた次の文言である。ーつまり、日本は中国侵略、世界征服の野望を抱いており、東方会議でその基本計画を決定したというのである。

「支那を征服せんと欲せば、まず満蒙を征服せざるべからず。世界を征服せんと欲せば、まず支那を征服せざるべからず。もし支那にして完全に我国のために征服せられんか、他の小アジア、インド、南洋等々のごとき異服の民族は必ず我を畏敬して我に降伏すべし。世界をして我国の東洋たるべきを知らしめ、永久にあえて我国を侵害することなからしむるに至るべし、これ明治大帝の遺業にして、また我日本帝国の存立上必要たり」

こうした文書が話題になり始めたのは、東方会議の二年後の昭和四年秋のことであり、一般に発表されたのは、その年の十二月、南京で発行されていた「時事月報」という雑誌に中国文で掲載されたのが最初とされる。これを契機に、中国各地でパンフレットのような形で、この「田中上奏文」が刊行され、広く知られるに至る。作者は、中国共産党説から日本人説までいくつもあるが定説はないようである。ーここでは、この「田中上奏文」なる文書が、まず中国において、中国文で「日本による中国征服・世界征服のマスタープラン」として流布されたという事実を確認しておきたい。

ーーーーー
偽文書が決定した対日認識 「田中上奏文」を考える(『明日への選択』編集長 岡田邦宏)〈『明日への選択』平成12年9月号〉
http://www.seisaku-center.net/node/199

Wiki. より歴史的背景を参照します。
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1927年(昭和2年)3月24日、蒋介石ら国民革命軍は南京に入城し、外国領事館を襲撃する南京事件が発生する。この南京事件はのちにコミンテルンのミハイル・ボロディンらによる工作であることが発覚するが、同年4月3日にも日本人居留民が襲撃される漢口事件が発生した。こうした事件を受けて幣原喜重郎外相の協調路線は軟弱として批判され、1927年4月20日に田中義一政友会内閣が成立する。田中は対中外交を積極方針に転じ、5月末より6月にかけて居留民保護のために山東出兵を行った。

6月27日から7月7日にかけて東京で外務省・軍関係者・中国駐在の公使・総領事などを集めた対中政策についての東方会議が行われた。東方会議は、田中内閣のもとで外務次官となった森恪が実質的に組織した。森は満蒙政策強硬論者であり、遼寧省・吉林省・黒竜江省の東三省を中国から分離方針が反映したものであった。7月7日に「対支政策要綱」が発表された。要綱では、自衛を理由に武力行使を辞さないこと(第五条)、日本は東三省、満蒙に「特殊地位」があること(第七条)、動乱が満蒙に波及した場合は「適当の措置に出づるの覚悟あるを要す」とあった(第八条)。

日本軍による山東出兵が行なわれるなか、日本軍の進出に対して北京政府直隷派の周蔭人らは青島奪還を計画し、他方、北京政府奉天派張宗昌はこれを討伐しようとした。そのようななか、特に奉天において「東方会議の結果および田中内閣の満蒙積極政策反対」のスローガンをかかげた反日運動が行われた。

その後、1928年には済南事件、張作霖爆殺事件が起こり、1929年(昭和4年)に田中内閣は張作霖爆殺事件責任者処分にからんで総辞職した。このような時代背景の中、田中上奏文が作成されたのであるが、いつから流布していたのかは不明である。

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国際派日本人養成講座 (28)平気でうそをつく人々(転)朝日新聞本多記者

2015.03.17.03:43

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http://www2s.biglobe.ne.jp/nippon/jogbd_h10_1/jog028.html

■5.よみがえる虚像■

 「百人斬り」の虚像は、昭和46年、今度は朝日新聞でよみがえった。本多勝一記者の「中国の旅」である。

 これは日本でも当時一部で報道されたという有名な話なのですが″と姜さんはいって、二人の日本兵がやった次のような”殺人競争”を紹介した。
 「M」と「N」の二人の少尉に対して、ある日上官が殺人ゲームをけしかけた。南京郊外の句容から湯山までの約十キロの間に、百人の中国人を先に殺した方に賞を出そう--。
 二人はゲームを開始した。結果は「M」が八十九人、「N」が七十八人にとどまった。湯山に着いた上官は、再ぴ命令した。湯山から紫金山まで十五キロの間に、もう一度百人を殺せ、と。結果は「M」が百六人、「N」が百五人だった。こんどは二人とも目標に達したが、上官はいった、″どちらが先に百人に達したかわからんじゃないか。またやり直しだ。紫金山から南京城まで八キロで、こんどは百五十人が目標だ″
 この区間は城壁に近く、人口が多い。結果ははっきりしないが、二人はたぶん目標を達した可能性が強いと、姜さんはみている。

 日々新聞版と違って、今度は、敵兵の「百人斬り」が、一般市民の「殺人ゲーム」に置き換えられ、上官が命じたものとされ、さらに3ラウンドに増やされている。明らかに意図的な作り替えである。

「中国の旅」は単行本でも出版され、それには注釈として、日々新聞の記事も引用されている。本多記者はこの作為的な作り替えを知りながら、本文ではその訂正もしない。あくまで「姜さんがそう言ったのは事実」だからだろう。この記事で、「百人斬り」の向井少尉の虚像は、「殺人ゲーム」の「M」少尉として一層パワーアップして復活した。「13日の金曜日」のジェイソンも顔負けの殺人鬼である。


いよいよ本多勝一記者の登場です。
本多記者は腕のあるジャーナリストです、だからこそたちが悪い。
本多記者の正体についてはベールがあります。
様々なところで述べられていますように、年齢や学歴にベールがあり、一事が万事の様ではないでしょうか。
ある意味、腕一本で世界を変えた、歪めたのですから、ジャーナリストとしての本望です。

本多氏は月刊WiLL 第20号 (2006年06月26日発売)のふたつの特集に顔を出しました。
【総力特集】「こいつが日本をダメにするッ!」では〈本多勝一 疑惑だらけの履歴書(朝日新聞を正す会)〉で、【特集】「南京大虐殺の真実」では〈百人斬り訴訟の「事なかれ」判決 (稲田朋美)〉で。
ちなみに【特集】「南京大虐殺の真実」の他の記事は、〈「百人斬り」野田元少尉銃殺までの獄中手記〉〈民間人無差別虐殺は存在しなかった(鈴木忠孝)〉です。
機会があればご一読ください。

この中の一節を残します。
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 佐藤「あなたの経歴として『京都大学教養学部入学』というのが記されておりますけれども、卒業した時期がかいていないのですが、京都大学を卒業していないのですか」
 本多「厳密に言えば卒業していません。だからそのように書いたことはないはずですね」
 佐藤「そうするとあなたの最終学歴は、千葉大学の薬学部卒業ということですね」
 本多「卒業という意味ではそうですね」

~~~~~
 本多勝一が一体どのような資料や調査をもとに「百人斬り」が真実であり、しかもその実態は「捕虜すえもの斬り」だった、などと書いたのか。少なくともこれだけは明らかにすべきことなのです。本多氏の行為の悪質性を知るためにも、本多氏の証人関門をするべきでした。
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いわゆる百人斬りを書いた朝海記者の家族は支那に、いわゆる従軍慰安婦を書いた植村記者の家族は南朝鮮に恩恵を受けているようです。
本多氏はそのような尻尾をださない、このベールを持っているのです。
そんな本多氏ですから、たぶん要らなかったであろう栄誉を中共から授かっています。

「事実」伝えた本多勝一氏ら表彰 南京大虐殺記念館 毎日新聞2006年9月25日
http://www.mainichi-msn.co.jp/kokusai/asia/news/20060925k0000e040074000c.html

中国江蘇省南京市の南京大虐殺記念館は24日、南京大虐殺の「事実」を伝える上で大きく貢献したとして、ジャーナリストの本多勝一氏、元早大教授の故洞富雄氏ら8人を表彰することを決めた。新華社が同日伝えた。ほかの6人は、南京大虐殺を研究してきた国内の学者ら。(北京・共同)

国際派日本人養成講座 (28)平気でうそをつく人々(承)毎日新聞浅海記者

2015.03.16.22:24

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_/ _/ _/ _/ _/_/ 国際派日本人養成講座
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http://www2s.biglobe.ne.jp/nippon/jogbd_h10_1/jog028.html


■3.自己宣伝とゴマスリのための創作記事■

 山本七平は「私の中の日本軍」で、自らの従軍体験をもとに、これが完全な創作記事であることを、徹底的に暴いて見せた。曰く

 日本刀で3人も斬れば、どんな名刀でも刃こぼれし、刀身は折れ曲がり、柄ががたがたになる。
  まして、「鉄兜もろとも唐竹割り」などということは、木刀でマキを割るのと同様に物理的に不可能。
  (従軍した軍刀修理の専門家の著書から)[「私の中の日本軍<下>」、山本七平、文春文庫、'83 ,p71]

 「鉄兜」などという言葉は軍隊にない。日本軍では「鉄帽」と言う[「私の中の日本軍<下>」、山本七平、文春文庫、'83 ,p96]。
  また「貴様」は兵隊用語であり、名誉や威厳にうるさい将校は絶対に使わない。「向井少尉、貴公は」と言
うはずである。[「私の中の日本軍<上>」、山本七平、文春文庫、'83 ,p307]

 向井少尉は砲車小隊長であり、野田少尉は部下を持たない大隊副官である。勝手に砲車や大隊長のそばを離れて、敵陣を襲ったり、「飛来する敵弾の中で」新聞記者と話をしていたら、「違命罪」で軍法会議にかけられる。[「私の中の日本軍<下>」、山本七平、文春文庫、'83 ,p179,p224]

 山本七平は、このような分析の後に、結局この記事は、浅海記者が「飛来する敵弾の中で」一生懸命取材していますよ、という自分の上司に対する自己宣伝と、「お宅の二少尉が日本刀を振りかざして駆け出せば、シナ兵の百人や二百人はバッタバッタでございますよ」[「私の中の日本軍<下>」、山本七平、文春文庫、'83 ,p202]という陸軍に対するゴマスリであると結論している。二人が浅海記者に何を語ったかは分からないが、こういう記者に出会ってしまったのは、二少尉の一生の不運であった。



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北京で会った「百人斬り」浅海記者の娘 (「週刊新潮」二〇〇九年九月三日号高山正之氏著「変見自在」より)

 向井敏明、野田毅の二人の少尉が南京の収容所に送られたときは異様な雰囲気だったと、当時の収容者の一人は語っている。米国は日本のイメージを「第三世界の解放者」から「残忍な侵略者」へと書き換えていた。
 それは難しくはない。日本人が千人否定しても、白人一人がそうだと言えばそれを真実にできた。実際、米国の宣教師とドイツの武器商人の証言だけで三十万人南京大虐殺があったことにされてしまった。バターン死の行進も同じで日本人が何を言おうと米国人の嘘が真実になる。
 ただ彼らも白人が創った嘘ばかりでは気が引ける。だから毎日新聞の「百人斬り」は日本人が自ら「残忍な日本人」を語ったと大喜びした。二人の少尉は日本認定の貴重な「残虐・日本」の象徴として扱われたというのが冒頭の異様な雰囲気の意味だ。
 二人はそんな米国の目論見を知らない。南京の獄中から記事を書いた浅海一男記者に真実を語ってと手紙をしたためた。浅海は記事で二人に無錫や丹陽など四か所で会って、その都度、関の孫六で三十人斬った五十人斬った、最後に紫金山で会ったときはとうとう百人を超えちゃったと二人で大笑いしたと書いている。
 しかし二人はこの記者に無錫で一度会っただけだ。向井はその後、負傷して病院に送られ紫金山にも行ってない。浅海自身も従軍記録によると激戦地の紫金山には行っていない。
 要は浅海のでっち上げ記事だった。状況証拠もある。彼はAP特派員との架空会見など他にも嘘を書いていた。嘘の常習記者だった。そんな男が真実を語るとも思えない。案の定、返信は「記事にした事実は二人から聞いた」と真実の一片も語ってはいなかった。かくて二人は浅海の記事を唯一の証拠に、その一か月後に処刑された。
 一方の浅海は戦後、新聞社で将来設計を考え、これからは「左」に活路があると読み、新聞労組幹部になった。中国に左の政権ができると彼も早速、毛沢東賛美に走った。中共の対日新聞工作は六〇年代廖承志を中心に活発化し、やがて日中記者交換が実現した。浅海は新聞労組委員長として北京に招かれ、廖に会い、廖はそこで彼があの「百人斬り」の浅海本人と知る。
 「残虐・日本」はまだ使いでがあると北京は読んでいた。カギとなる浅海を放置しておく手はない。廖は浅海の定年退職を待って彼を北京に招いて職を与え、娘の真理を北京大学に入学させた。やがて本多勝一の「中国の旅」が朝日新聞で始まり、浅海の「百人斬り」がもっとどぎつく再録された。
 山本七平がその嘘を糺し本多と論争になる。浅海も北京から戻ってきて他人事のように「二人は最期に日中友好を叫びました。その精神が大事です」とか。「日本軍は毒ガスの赤筒で敵兵をいぶり出して掃討した」とか。「敵兵」はトーチカに鎖で繋がれていた。いぶったところで外に出てはこれない。それに赤筒は催涙弾で毒ガスではない。
 浅海は世話になっている北京政府の思惑通りに日本を残虐な侵略国家として死ぬまで語り続けた。二人の少尉の遺族が浅海の嘘に関わった毎日新聞と朝日新聞を六年前に訴えた。
 しかし地裁も高裁も米国製の歴史観を覆す度胸はなく遺族の訴えを退けた。最高裁はもっと臆病に門を閉ざして国民を裏切った。判決のあと北京の国営友誼商店を訪ねた。日本からの旅行客が必ず連れて行かれる土産屋で、その一階左奥に浅海の娘が北京政府からもらった店がある。
 廖承志の額の下で彼女は「父は苦しんだ」という。
 自分の嘘で二人も殺したら誰だって苦しむ。でもその嘘のおかげで親子二代がこうして安穏と暮らしてきたことは語らない。
 ちなみに今回総選挙では最高裁判事の審査がある。百人斬り訴訟を棄却した判事は残念ながら対象外だが、彼らの不始末の責任をとる竹崎博允最高裁長官がいる。国民があの裁判をどう思ったか。×で示したい。

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国際派日本人養成講座(28)平気でうそをつく人々(起)百人斬りの全容

2015.03.16.22:12

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■1.あんな事はホラさ■

元帝国陸軍大尉・向井敏明のもとに警察が訪れたのは、復員後1年足らずの昭和22年であった。米軍憲兵が彼を捜しているという。警察は暗に逃亡を進めたが、「自分は悪いことをしていないから、出頭します」と答えた。

妻は、虫の知らせで「もしや、百人斬りの事が問題になるのでは?」と聞いたが、向井は「あんな事はホラさ」と、事もなげに言った。しかし妻の不安は的中し、これが夫婦の最後の会話となった。向井は南京に連れ去られ、「百人斬り」をした戦争犯罪人として死刑となったのである。[「『南京大虐殺』のまぼろし」、鈴木明、文春文庫、'83, p71]

■2.百人斬り競争!?■

昭和16年、東京日日新聞(毎日新聞の前身)の浅海記者は、南京を目指す日本軍を報道する中で、次のような記事を書いた。

百人斬り競争! 両少尉早くも80人 (11.30)

百人斬り”超記録” 向井106-105野田 両少尉さらに延長戦 (12.13)

■4.向井少尉の遺書■

 浅海記者の記事が証拠となって向井、野田両名は、南京に送られ、中国の軍事法廷で死刑に処せられた。裁判中、家族が浅海記者に、あの記事がでたらめだったことを証言してくれ、と必死に頼んだが、浅海記者が書いてくれたのは「同記事に記載されている事実は、向井、野田両氏より聞きとって、記事にしたもので、その現場を目撃したことはありません」という内容だった。

 これは非常に巧妙なセリフで、「百人斬り」そのものが事実かどうかは知りません、ただ二少尉がそれを自分で話していたのは事実です、という意味になる。結局、二少尉が「百人斬り」を自白したのと同じ事になったのである。

 向井少尉は処刑の前に、-遺書を残した。

 一方の浅海記者は戦後、毎日新聞を代表する「大記者」として活躍し、定年退職後は「日中友好推進派」として、毛沢東や文化大革命を礼賛した数冊の著書を残している。[「『南京大虐殺』のまぼろし」、鈴木明、文春文庫、'83 ,p98]



■2.百人斬り競争!?■の記事については↓を参照してください。
「「南京大虐殺」のまぼろし」事実が変貌する過程 / 南知隊 2014.11.04.
http://mayuryou1025.blog76.fc2.com/blog-entry-539.html

■4.向井少尉の遺書■については↓を参照してください。
向井、野田両少尉の遺書 / 南知隊 2015.03.15.
http://mayuryou1025.blog76.fc2.com/blog-entry-613.html

国際派日本人養成講座さんには、いつも学ばせていただいています。
このような形ではありますが、ひとつずつご紹介させていただきます。
プロフィール

南知隊!

Author:南知隊!
~南京の真実を知らせ隊~
略称『南知隊』
『南京大虐殺』と言う歴史歪曲による不当な冤罪を多くの人達にしってもらおう!
そんな想いを持った人々の集合ブログです。

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